2019/05/27
"テレビっ子"手塚治虫を読もう!!(1960年代編)
第1回:『鉄腕アトム』に出てきた謎のおじさんの正体は!?
あなたは手塚治虫のマンガを読んでいて"謎のセリフ"に遭遇したことはないだろうか。登場人物が物語の流れを無視して口走る意味不明の言葉......。この言葉って何なの??? じつはそれ、そのマンガが発表された当時のテレビの流行語かも知れませんよ!? ということで今回から3回にわたって1960年代の手塚マンガに描かれたテレビの流行語を、当時の世相とともに大調査してみよう! 前から気になっていた手塚マンガの謎のセリフ......それはもしかしたら当時のCMのキャッチコピーだったのかも知れませんよ!!
◎手塚が初めてテレビを買ったのは......!?
手塚治虫がテレビを買ったのは1954~55年ごろのことだ。1954年10月、手塚はそれまで1年ほど仕事場として借りていた東京都豊島区椎名町(現・南長崎)のアパート「トキワ荘」を引き払い、新たに豊島区雑司が谷のアパート「並木ハウス」へ引っ越した。そのときにピアノやオーディオセットなどさまざまなものを買い込んだのだが、その中にテレビもあった。
1950年当時のテレビ放送受信契約数は16万5666世帯。普及率はいまだ0.9%に過ぎなかったが、前年の5万2882世帯からは3倍以上に増加しており、テレビ時代の到来もそう遠いことではないと思える......そんな時代にテレビを買った手塚治虫はまさに"テレビっ子"第一世代といっていいだろう。
1960年代のものと思われるブリキのポータブルテレビ型貯金箱。画面には巨人軍の長嶋茂雄選手が映っている
ということで、手塚マンガにはその作品が発表された時代にテレビで流行っていた流行語や人気キャラクターの似顔絵などが随所に引用されている。しかもその引用の仕方、言葉の選び方がじつに絶妙で、その時代をみごとに切り取っているのだ。
今回は、そんな手塚マンガに描かれたテレビの流行語や人気キャラクターを全3回にわたって振り返ろう。ただし全時代にわたってしまうと膨大な数になってしまうので、ひとまずテレビが急速に普及し始めた1960年代に絞ってご紹介。手塚は果たしてどんな流行語や人気キャラクターをその時代から切り取ったのか。ご期待を!!
『サンデー毎日』オリンピック特集号2冊。右の表紙は開会式の模様(1964年10月25日号)、左の表紙のチェコの体操選手チャスラフスカと日本の金メダリストたちだ。ちなみにこの時期、同誌には手塚治虫が『よろめき動物記』を連載中だった
聖火を持って走るアトム! 明治製菓「マーブルチョコ」のおまけのアトムシールの1枚だ
◎単行本でカットされたコマに謎のおじさんがいた!!
あの日あの時+(プラス)調査隊が最初に向かったのは1964年の初夏だ。この年は東京オリンピックの開催された年であり、テレビの受信契約数は1,713万2,090世帯。毎年、100万世帯単位で契約数が増えていた時代だ。
そして1963年の元旦から放送が始まった虫プロ製作のテレビアニメ『鉄腕アトム』の人気が爆発し、後発のテレビアニメの放送も続々と始まって、まさしく第1次アニメブーム真っ盛りのころでもあった。
テレビアニメ『鉄腕アトム』のスポンサーだった明治製菓は人気子役の上原ゆかりを"マーブルちゃん"の愛称で起用し、アトムシールの入った「マーブルチョコレート」を大々的に売っていた。テレビCMではフィルムのコマ落とし撮影を利用してマーブルちゃんがアニメのようにちょこまかと動くコミカルな姿が放送され、マーブルチョコは大ヒット商品となっていたのだ。
そんな時期に手塚が雑誌『少年』に連載したのが『鉄腕アトム』「地上最大のロボットの巻(雑誌掲載時タイトル:史上最大のロボットの巻)」である。そしてこのお話に、当時人気だったテレビCMのキャラクターが1コマゲスト出演している。
ただしこのコマ、残念ながら後の単行本ではカットされてしまったので、ここでは雑誌連載当時の複刻版で見てみよう。
光文社のカッパコミクス『鉄腕アトム』の裏表紙広告。当時の人気子役・上原ゆかりは明治製菓のCMキャラクター「マーブルちゃん」として大活躍した
今回のテーマとなる手塚マンガがコレだ! 雑誌『少年』1964年7月号別冊付録の『鉄腕アトム』。ここに単行本ではカットされたコマが載っている......。※画像は復刊ドットコム刊『鉄腕アトム《オリジナル版》複刻大全集』ユニット5より(以下同)
破壊ロボット・プルートウとの初対面で力の差を思い知らされたアトムは、お茶の水博士に自分を100万馬力に改造して欲しいと願い出るのだが......
お茶の水博士はアトムの申し出を顔を真っ赤にして反対する。右ページ中段2コマ目が単行本でカットされてしまったコマである
◎今も愛される洋酒のイメージキャラクター!!
この物語は、世界の名だたるロボットを次々と破壊して回る破壊ロボット・プルートウのお話だ。そのプルートウと初対決したアトムは100万馬力のプルートウにまるで歯が立たなかった。そこでアトムはお茶の水博士に自分も100万馬力に改造して欲しいと願い出たのだ。しかしお茶の水博士は顔を真っ赤にしてそれに反対する。と、その隣のコマで酒を飲んで顔を赤らめながら博士の怒りを茶化す謎のおじさんが不意に登場する。このおじさんは洋酒メーカー・サントリーのキャラクターのアンクルトリスである。
アンクルトリスが誕生したのはサントリーの社史によれば1958年。同社が寿屋という社名だった当時、同社宣伝部に在籍していた酒井睦雄と開高健が考案した原案を元に、柳原良平がキャラクター化したものだった。
テレビではこの年に放送された「トリスバー」と題したアニメCMにアンクルトリス氏が初登場している。『鉄腕アトム』に描かれた様子そのままに、アンクルトリスがグラスのお酒を飲むと、顔が下の方からぐーっと赤くなり顔が大きくなっていく(実際は白黒テレビなので灰色から濃い灰色に変わっていくだけだが)。
手塚はこのころ自分自身も虫プロで第一線に立ちテレビアニメを作っていただけに、この洗練されたアンクルトリスのCMにも大いに注目していたのだろう。
この時期に手塚が作った実験アニメーションには、アンクルトリスのテイストを意識したようなアダルトな雰囲気の短編作品も何本かある。
アンクルトリス登場初期の寿屋「サントリー」「トリスウイスキー」新聞広告2種。左が1958年6月、右が1959年1月のもの。とがった鼻と太い首はアンクルトリスだが、まだイメージは固まっていなかった
◎トリスを飲んでHawaiiへ行こう!!
アンクルトリスがさらに多くの人に認知されるようになったのはデビューから3年ほど後のこと、寿屋が1961年に行った「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」キャンペーンである。トリスウイスキーに付いている抽選券をハガキに貼って応募すると100名に8日間のハワイ旅行が当たる。当時日本はいまだ海外旅行自由化前の時代であり、一般人が観光で自由に海外へ行くことはできなかった。そんな時代にハワイ旅行が当たるということでキャンペーンは話題となり、この広告によってアンクルトリスの認知度も一気に上がったのである。
ただしこの広告、よく見ると1等に当選するともらえるのは旅行券や飛行機のチケットなどではなく「ハワイ旅行積立金証書」と書かれている。じつは今も言ったようにこの時はいまだ海外旅行自由化前だったので、自由化されるまで22か月にわたって寿屋が旅行費用を積み立ててくれて、元利合計39万6455円がもらえる、というキャンペーンだったのだ。
そしてその後、1964年4月にめでたく海外旅行が自由化された後、晴れて当選者のハワイ旅行が実施された。けれども当選者100名のうち参加したのは30名だけで、それ以外の人は、預金をとっくに別の用途に使ってしまっていたのだった。
ではまた次回、"テレビっ子"手塚治虫の秘密を探る1960年代への旅でご一緒いたしましょう!!
1962年2月の寿屋「トリスウイスキー」新聞広告。このころになるとようやく見慣れたアンクルトリスのキャラクターが固まった
アンクルトリスがトリスを飲んで顔を赤らめる寿屋のCM「トリスバー」(加藤秀俊監修、全日本CM協議会編『CM25年史』1978年、講談社刊より)
アンクルトリスの知名度を一気に上げた「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の新聞広告(1961年9月)
講談社版手塚治虫漫画全集『鉄腕アトム』「地上最大のロボットの巻」より。3段組だった別冊付録を4段組の単行本にする際、アンクルトリスのコマはカットされてしまった
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
手塚マンガあの日あの時+(プラス)
■バックナンバー
・第1回:手塚ファン1,000人が集結! 手塚治虫ファン大会開催!!
・第2回:ファン大会再び! 手塚治虫、アトム復活にかける思いを語る!!
・手塚マンガのルーツを調査せよ! 第1回:手塚治虫を自然科学に目覚めさせた1冊の本!