2020/01/31
『ばるぼら』が描いた1970年代という時代
第3回:日本沈没とノストラダムス
手塚治虫が1973年に発表したマンガ『ばるぼら』。そこに描かれた1970年代という時代を読み解くコラムも今回が完結編! 現実社会の苦しみから逃れようともがく主人公・美倉洋介が、最後に落ち込んでいく"オカルト世界"について振り返ろう。あのころ、多くの人にとって世界の終わりは今よりずっと切実で現実的な問題として見えていた!? それはいったいどういうことなのか......!?
◎自身の作品がベストセラーになるとき
『ばるぼら』の物語の中盤、人気小説家・美倉洋介がフーテンの少女バルボラをモデルとして書いた新作小説『狼は鎖もて繋げ』が出版されて、それが大ヒットしていく過程がつぶさに描かれている場面がある。
「ある日突如としてこのブームは始まるのだ」
という美倉のモノローグなど、作家側からしか見ることができない、自分の作品がベストセラーになっていく風景。これを手塚治虫が描いていると思うとそのリアリティもひとしおだ。
このくだりに大ヒットした小説の例として書名が挙げられているのが小松左京のSF小説『日本沈没』である。
『ばるぼら』より。ある日目覚めると、自分が時代の寵児となっていた。美倉はそんな体験を淡々と語る。※以下、『ばるぼら』の画像はすべて小学館クリエイティブ刊『ばるぼら オリジナル版』(2019年刊)より
◎『日本沈没』から始まった終末ブーム!
『日本沈没』は1973年3月に光文社から単行本上下巻で刊行された小松左京の書き下ろしSF長編小説だ。
物語は、日本各地で火山の噴火や地震が発生、やがてそれは日本全体が海底に沈没する前兆だったことが明らかになるというものだ。
この小説は発表されるやたちまち話題となり、385万部を超える大ベストセラーとなった。
その内容は詳細に調査した膨大なデータをもとにノンフィクションのような語り口で書かれていたため、現実に日本が破滅する予言であると信じる人まで現われた。
前回までのコラムで紹介してきたように、このころの人々が日々の生活に感じていた形のない漠然とした不安......それを形にしたのがこの小説『日本沈没』だったのである。
『ばるぼら』の作中で美倉が書いた小説『狼は鎖もて繋げ』もまた、不安な時代を背負って破滅へと向かう主人公の姿が、この時代の人々に大いに受け入れられたという設定だったのである。
美倉のモノローグにも登場する小松左京のSF小説『日本沈没』上下巻(1973年、光文社刊)
『日本沈没』の新聞広告。当時の売れ行きのすさまじさが分かる。『朝日新聞』1973年8月15日号より
ひとたび作品がヒットすると、その勢いはもう誰にも止められない
◎石油危機が教えた文明社会のもろさ!
そして『日本沈没』から半年後の10月、漠然とした不安は現実のものとなる。
日本を石油危機が襲ったのだ。10月6日、エジプトのゴラン高原でイスラエル軍とエジプト・シリア軍が衝突、第四次中東戦争が勃発した。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、イスラエルに対抗するために石油の生産削減と供給制限を行うと発表。これが第一次石油危機の始まりだった。石油消費量の99.7%を輸入に頼っていた日本はこの影響をまともに受けた。
11月になると、製造するために石油を必要とする日用品がなくなるというウワサが広まり買い占めが始まった。最初に関西で始まったそれは、20日後には首都圏に波及。トイレットペーパーや洗剤、砂糖などがたちまち店頭から消えたのだった。ガソリンスタンドではガソリンの価格が2倍3倍に暴騰し、売り惜しみも各地で起きた。
中東戦争の始まりを報じた『朝日新聞』1973年10月9日号の記事。この時はまだ石油危機が目前に迫っていることをほとんど誰も気が付いていなかった
日用品の買い占めはまず関西で始まりたちまち首都圏へ波及していった。『朝日新聞』1973年11月3日号より
やがて灯油の買い占め、ガソリンの売り惜しみなども始まった。『朝日新聞』1973年11月12日号より。
石油危機がいよいよ本格化。政府もようやく事態の収拾に動き出した。『朝日新聞』1973年11月15日号より。
◎1999年7月、世界は破滅する!?
さらにこの騒動の真っ最中に、新たな1冊の本が出版された。『ノストラダムスの大予言』である。
16世紀フランスの占星術師ノストラダムスが著した『予言集』をルポライターの五島勉が読み解いたというノンフィクションの体裁で書かれた読み物で、同書の中で五島は、ノストラダムスが1999年7月に人類が滅亡することを予言していたと紹介した。
この本は人々に『日本沈没』以上の衝撃を与えた。そして『ばるぼら』の物語も、まさにこのころから、オカルトの方向へと急激に傾斜していくのである。
世紀末本の本命、五島勉著『ノストラダムスの大予言』(1973年、祥伝社刊)。1999年7月に空から恐怖の大王が降ってきて地球は滅亡するという言葉に多くの人が震撼した
映画版『ノストラダムスの大予言』の新聞広告。東宝の製作で映画化され、1974年夏休みに公開された。監督は舛田利雄、主演は丹波哲郎、黒沢年男、由美かおる
◎バルボラは魔女なのか!?
正体不明のフーテン少女バルボラ。物語の前半まで、彼女は作家の才能を輝かせる芸術の女神=ミューズだと思われていた。
しかし美倉が彼女と行動を共にしていると、その周りでは相次いで不可解な出来事が起こるのだ。
そこで美倉は彼女が"魔女"なのではないかと疑い始める。
見せかけの平和の中で人々が抱いている漠然とした日常への不安......そこから逃れるためか多くの人が、創作と現実の世界をあえて(?)混同しつつ、自らその陥穽へと落ち込んでいく......。
そんな時代に芸術家そして作家にはいったい何ができるのか。美倉はその答えを見出せないまま、バルボラを追いかけて魔女と黒魔術の世界へと落ち込んでいったのである。
美倉洋介は、バルボラが魔女なのではないかという疑念を抱き、図書館である1冊の本と出会う
美倉が出会ったのも恐らくこの本だったのだろう、手塚治虫が『ばるぼら』の中で参考図書として名前を挙げている「ピーター・へイニング著『魔女と黒魔術』(1973年、主婦と生活社刊)
『ばるぼら』に描かれた魔女の絵。マンガ本編ではここから数ページにわたって『魔女と黒魔術』を参考書に、手塚独自の魔女論が展開されている
前出『魔女と黒魔術』より。『ばるぼら』に引用されたイメージと見くらべてみていただきたい
上:『ばるぼら』より、下:前出『魔女と黒魔術』より。ここでも精密な図版の引用によって悪魔的世界がリアルに補強されている
『ばるぼら』より。手塚治虫による魔女と悪魔の解説は20ページ近くにわたって続く。目まいがするほどの饒舌さを、ぜひ本編で味わっていただきたい
◎手塚治虫が参考にした悪夢的世界の教科書
『ばるぼら』の中盤からラストにかけて、物語全体を覆いつくすように繰り返し描かれる悪夢的なビジュアル。これらはその圧倒的な迫力で読むものを不思議な幻想世界へと誘う。じつはこれも、この当時刊行された1冊の本が参考にされている。
それは73年7月に主婦と生活社から刊行されたピーター・へイニング著、森島恒雄訳『魔女と黒魔術』だ。
手塚自身が作中でこの本を参考にしたと断り書きを添えているように、悪魔と魔女に関するくだりでは、この本から多くの図版が引用あるいはその記述が参考として引用されている。
著者のピーター・へイニングはイギリスのジャーナリストで10年間にわたり魔女と黒魔術について取材。自ら魔女と称する人に会ったり儀式を目撃するなどしてこの本を著したという。
政治や社会が不安定になるとオカルトが流行するという。あのころの日本では、見せかけの平和の中、多くの人がその向こうに遠くない未来の破滅や時代錯誤的な悪魔の姿を思い浮かべていた。
それをマンガとして鮮やかに切り取って見せたのが手塚治虫の『ばるぼら』だったのである。
世紀末的な雰囲気の中で盛り上がる超能力ブームを報じる『朝日新聞』1974年1月14日号夕刊の記事。記者はヒッピー文化やインドブームなどの自然回帰志向と根っ子は同じなのではないかと分析している
美倉洋介はバルボラと結婚の約束をし、悪魔との契約に血判を捺してしまうのだった
『ばるぼら オリジナル版』(2019年11月20日発売、小学館クリエイティブ刊、定価5,400円+税)。過去の単行本に収録されなかったトビラや削除されたページを連載時のまま復元した完全版。単行本初収録・全集未収録の貴重な短編5編も収録
今回はちょっと硬い政治と社会のお話になりましたが、次回は話題をガラッと変えて、思わず気が抜けてしまうような超脱力ネタをご用意しております。ぜひまた次回のコラムにもお付き合いください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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