写真と文/黒沢哲哉
没後31年を経た今も毎月のように新刊が刊行され続けている手塚治虫マンガの復刻版。しかし最近、出される作品の傾向や本のイメージが数年前とかなり変わってきた──そんな印象を持たれる方も多いだろう。それはなぜなのか!? あの日あの時+(プラス)では2020年を手塚マンガ復刻新時代と名付け、復刻の最前線で仕事をされている方々を直撃、その新しさの秘密に迫ってみた! 今回は大手出版社とはまったく違うアプローチで手作り感満載の個性的な手塚マンガ復刻本を出版した編集者の吉田宏子さんに話を聞いた!!
新型コロナウイルス騒動渦中の2020年5月1日、手塚治虫の初期の新聞連載作品を中心にまとめた復刻本が出版された。題名は『手塚治虫アーリーワークス』。収録作品は手塚治虫のデビュー作である『マアチャンの日記帳』を始めとした初期の新聞掲載作品がメインで、それに習作時代の未完の長編『ロマンス島』が別冊として付いた2冊セット箱入りの上製本だ。
定価2万円+税という価格にまず驚くが、実際に手に取ってページを開いてみると、作品ごとに紙や地色を変えていたり、印刷の品質にも細部までこだわりがあり、心を込めてていねいに作られた本であることがすぐに分かる。この手作り感あふれる繊細なブックデザインを手がけたのは、常識をくつがえすデザインで知られる祖父江慎氏である。
手塚治虫の本はこれまで星の数ほど出版されているが、これは決して誇張ではなく、きっと誰もが"こんな手塚本は見たことがない!"と言うだろう。
この本を刊行した出版社の名前は「888(ハチミツ)ブックス」。手塚治虫の本を出すのは初めてなので聞いたことがないという方も多いだろう。今回お話をうかがうのは、その888ブックスを主宰して『手塚治虫アーリーワークス』をみずから編集・出版した吉田宏子さんである。
吉田さんは岡山県倉敷市の出身で、イラストレーション専門誌の編集部に長く在籍した後、2011年にフリー編集者として独立。2015年に一人出版社「888(ハチミツ)ブックス」を立ち上げた。
888ブックスのこれまでの主な出版物はフィリップ・ワイズベッカー『HAND TOOLS』、五木田智央『777』、横山裕一『PLAZA』、宇野亞喜良『恋の迷宮』など。また吉田さんは東京都渋谷区幡ヶ谷でアートスペース「パールブックショップ&ギャラリー」も運営している。他にもフリーの編集者としてスヌーピーミュージアムやディック・ブルーナ展の図録も手がけている。
このようにアート系の出版業界でマルチにお仕事をされている吉田さん。その吉田さんが今回、手塚マンガの復刻版を自社から出版することになったのはどういう経緯からだったのだろうか? まずそのあたりからお話をうかがうことにした。
「私が手塚先生の本に関わることになったのは『手塚治虫表紙絵集』(2016年、玄光社刊)からです。この本で編集のお手伝いをさせていただいたのが最初で、その後も『手塚治虫扉絵原画コレクション』全2巻(2017-2018年、玄光社)、『ふしぎなメルモ トレジャー・ブック』(2018年、玄光社)と続けて仕事をさせていただきました。
その仕事の中で手塚プロの復刻に携わっている方々、資料室の森晴路さん、田中創さん、出版局の古徳稔さんにもご挨拶させていただく機会ができました」
そこから今回の企画が生まれたわけですね!
「はい。これらの本の仕事で、原画の撮影などで手塚プロの新座スタジオにも足繁く通うようになりまして、その時にたまたま手塚先生の残された古いスクラップブックを見せていただいたんです。
『マアチャンの日記帳』など手塚先生の初期の新聞連載マンガが切り抜いて貼られているスクラップブックなんですが、手塚先生ご自身かあるいは手塚先生のお母様が作っておられたものだとうかがいました。
それがすごくかわいくて、特に『火星探検隊』はカラーだったので、これがまた素敵なんです。その時このニュアンスをそのまま伝えられるような初期作品集が作れたらいいな、と思ったんです。
そこでまずは『表紙絵集』の時からお世話になっているアンソロジストの濱田高志さんに相談したところすぐに乗ってくださって、濱田さんと一緒に収録作品を考えていきました。
『マアチャンの日記帳』は毎日新聞社から『手塚治虫デビュー作品集』としてすでに出版されていますが、そこに入ってないものもありますし、それ以外の初期の新聞連載作品にも単行本未収録のものが多くあるということで、それをあの手塚先生のスクラップブックの雰囲気で出すという方向性が固まっていきました。企画書を手塚プロに提出したのは2018年です」
冒頭にも書いたように、この本のデザインを担当したのは気鋭のブックデザイナー祖父江慎氏だ。祖父江氏の名前は本の装幀に興味のある方ならご存じない方はいないだろう。独創的で誰にも真似のできないデザインで知られる人物である。
その祖父江氏を吉田さんが今回起用されたのはどういう経緯からだったのだろうか。
「私は祖父江慎さんとは以前から他の仕事でいろいろとご一緒させていただいていて、『手塚治虫表紙絵集』のときにはインタビューをさせていただきました。そのインタビューの中で祖父江さんが"赤塚(不二夫)さんの本とか、杉浦茂さんの本などマンガの本のデザインはいくつかやっているけれど、手塚先生の本は『手塚治虫絵コンテ大全』をデザインしただけでマンガ作品のデザインは一度もやったことがない"とおっしゃっていて、それはすなわちマンガのデザインをやりたいということでした。それで今回祖父江さんにデザインしていただいたら面白いものになるんじゃないかと思ってお願いしました」
吉田さんによれば、祖父江氏はその依頼を二つ返事で引き受けてくれたという。
だが祖父江氏との仕事は、プロ中のプロであるがゆえに容易なことではないというのは、出版業界ではよく知られた事実だ。例えば仕事に乗れば乗るほどデザインに時間がかかり納期が大幅に遅れるとか、紙の質や装丁にこだわるため製作コストが当初予算を大幅に超えてしまうなど......。天才・祖父江慎と仕事をするには出版社と編集者の側にもそれなりの"覚悟"が必要なのである。
吉田さんは版元として納期や印刷・製本のコストなどについてはどう考えておられたのだろうか。
「祖父江さんに(デザインを)お願いするとなった時点で凝ったものになるというのは想定していました。そうなればおそらく原価も上がるだろうなと。でも最初から本としての愛情を持ってもらえるようなものにしたいという気持ちが強くありましたので、予算についてはまったく心配はしていませんでした。むしろどんなものが上がってくるか楽しみでしたね。
私はフリーの編集の仕事やギャラリーなどほかの仕事もやっていますので、自社で出す出版物というのは採算云々を考えるよりは、面白いものが作れたらいいなっていうのが888ブックスのそもそもの出発点なので、(制作過程において)私はぜんぜんブレーキ役にはなっていないという感じです。祖父江さんにお願いした以上"えー、それはだめです"とか、みなさんのやる気を削ぐようなことは私からはできません。
大手の出版社だったらそこで損益とか納期とか宣伝スケジュールなどを考えないといけないと思うんですが、うちは小さい出版社なのでコストが上がったり発売日が遅れたりしても何とかなるという自由度の高い本作りができているんです。
それで商売になっているのかというとよく分かりませんが、直接販売も行っていて、いちおう赤字にならない程度にはなっているので大丈夫です(笑)」
そんな吉田さんと編集チームのエキサイティングな制作過程の裏話は虫ん坊で取材されているのでそちらをご覧いたきたい。
・虫ん坊インタビュー:手塚治虫の原点にさかのぼれ! 「手塚治虫アーリーワークス」制作チームインタビュー
さてこうして祖父江氏の強いこだわりによって本書の刊行時期は想定通り(?)大幅に後ろ倒しされることになった。しかし吉田さんによればその遅れもまたプラスに働いたのだという。どういうことなのか?
「祖父江さんのデザインに時間がかかったことで、その間に新たな発見がいろいろあったんです。資料室の田中さんからは、関西輿論新聞版『ロスト・ワールド』の未発表の原稿が見つかったという知らせをいただいたり、濱田さんのご自宅の資料からも未収録作品(のスクラップ)が出てきたり、手塚ファンの方々からも『たみちゃん兄妹』の切り抜きなど様々な資料をご提供いただきました。
そうやって新たに見つかったものは追加でどんどん入れちゃおうということになって......。当初は箱入りでもなく"300ページくらいの本で定価1万円前後"と考えていましたので、そこからは大きく変わっちゃいましたね。
『ロマンス島』を収録するというのも当初の予定にはなかったものです。『ロマンス島』は過去に講談社の手塚治虫文庫全集全巻購入者の特典として出されたことがあるだけで、これまで一般の書籍としては刊行されていませんでしたから、濱田さんと打ち合わせて、これも収録したら初期作品集としてのパッケージの魅力が増すよね、という話になったんです。そこで手塚プロの田中さんと古徳さんにご相談したところOKのお返事をいただいたんです」
ここまで吉田さんの話をうかがってきて思うのは、小さな出版社ならではの手作り感と徹底したこだわりが最大限に生かされ、その結果として宝石のような手塚本が生まれたということだ。
かつて手塚マンガの復刻本が世に出始めた最初のころ、復刻本というのはマニアが私費を投じて少部数を製作し一部の熱心なファンがそれを買い求めるというごくごく小さな市場だった。だがやがてそこへ小学館や講談社などの大手出版社も参入するようになり、復刻本市場という巨大なマーケットが誕生したのである。
そして時代が平成から令和へと変わり、大手による復刻が一息ついた現在、吉田さんのような強いこだわりを持つプロデューサーが出てきたことで、手塚マンガの復刻に新たな未来の可能性が見えてきたのだ。
『手塚治虫アーリーワークス』は、そうした手塚マンガ復刻新時代を代表する1冊となったのである。
ということで最後に、吉田さんに888ブックスで今後また手塚マンガの復刻を手がける予定があるのかどうかを聞いてみた。
「今はまだ白紙ですが、いいタイミングで手塚先生の素敵な作品をうちのような小さい出版社からでも出してもいいよ、というお話になったらぜひやりたいと思っています。
今回の本は、『表紙絵集』で手塚先生の本に関わらせていただいたことから始まって、いろいろな方との出会いがあり、その過程で貴重な資料を見せていただく機会にも恵まれて、そうしたご縁から生まれたものでした。だからまたそういう巡り合わせがきたときにはぜひ(新たな企画を)前向きに考えたいですね!」
吉田さんありがとうございました!
*取材時には未定だったが、その後企画が固まった888ブックスから出版される手塚本、なんと11月に刊行予定だそうで、詳細は近く発表される見込みだ。次巻も「アーリーワークス」と同じ座組みで制作が進行中とのこと。
ちなみに手塚マンガ復刻本の歴史ついては過去の「手塚マンガあの日あの時」でくわしく紹介しているのでそちらもぜひ参照してください。
手塚復刻本黎明期の事情についてはこちら。
・手塚マンガあの日あの時 第38回:手塚マンガ・復刻の源流を探る!!
そして2015年当時の復刻の現状についてはこちら。
・手塚マンガあの日あの時 第37回:手塚マンガ復刻の現場を探訪する!!
手塚マンガ復刻新時代を斬る3回連続シリーズは今回で完結です。次回からは2020年11月に公開が決定した映画『ばるぼら』にちなみ、手塚治虫の原作マンガ『ばるぼら』を深堀りいたします!! お楽しみにっ!!
取材協力/888ブックス
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
手塚マンガあの日あの時+(プラス)
■バックナンバー
・第1回:手塚ファン1,000人が集結! 手塚治虫ファン大会開催!!
・第2回:ファン大会再び! 手塚治虫、アトム復活にかける思いを語る!!
・手塚マンガのルーツを調査せよ! 第1回:手塚治虫を自然科学に目覚めさせた1冊の本!
・手塚マンガのルーツを調査せよ! 第2回:手塚治虫が習作時代に影響を受けた幻のマンガ!
・手塚マンガのルーツを調査せよ! 第3回:手塚SFに多大な影響を与えた古典ファンタジーの傑作とは!?
・"テレビっ子"手塚治虫を読もう!!(1960年代編) 第1回:『鉄腕アトム』に出てきた謎のおじさんの正体は!?
・"テレビっ子"手塚治虫を読もう!!(1960年代編) 第2回:地球調査隊が出会った"テレビっ子"少年!!
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・一読三嘆!! 『七色いんこ』を8倍楽しむ読み方!! 第1回:世相と流行を知ると2倍楽しめる!!
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