2023/02/03
写真と文/黒沢哲哉
手塚治虫の代表作のひとつである『ブラック・ジャック』が2023年、連載開始50周年を迎えた。1973年11月に『週刊少年チャンピオン』で連載が始まって以来、いまだ人気の衰えないこの名作だけど、この作品がいったいどんな時代にどんないきさつから生まれたものだったのか、よくご存知ない方も多いだろう。そこで「『ブラック・ジャック』再入門」と題して、この作品誕生の背景と手塚の試行錯誤の日々を振り返ってみたい。第1回は、『ブラック・ジャック』誕生にいたる手塚流アンチヒーローの系譜を振り返ります!!
アトム→トッペイとロック→百鬼丸と続いた手塚治虫のアンチヒーロー像創造の試みには、この段階でまだやり残していることがひとつあった。それは主人公を子どもではなくおとなにすることだ。
前編でも書いたように、この数年前からマンガ界を席巻していた劇画は、おとなのアンチヒーローをリアルに描くことで、おとなの読者をも夢中にさせていた。その劇画に対抗するためには、手塚マンガにもおとなのアンチヒーローが必要だったのである。
そして手塚は、発表の舞台を『週刊少年チャンピオン』に移し、初めておとなのアンチヒーローを描いた。それが70年に発表した『アラバスター』である。
主人公は元花形オリンピック選手の青年だ。だが恋人に顔の醜さをなじられて裏切られたことから青年は自暴自棄となり、罪を犯し、投獄されてしまう。
やがて出所した彼は、ひょんなことから体を透明にする装置を手に入れた。そして本名を捨ててアラバスターと名乗り、世の中の美しい人や美しいものを次々と消し去り始めるのだ。
この『アラバスター』も発表当時は残念ながらあまり高い評価を得ることはできなかった。しかし手塚が自分流のアンチヒーローを模索する中では、これもまた避けては通れない道だったのである。
ちなみにこのアラバスターも、手塚がいきなり思いついたキャラクターではなかった。この作品に先立つ68年、雑誌『少年』連載の『鉄腕アトム』最後のエピソードとして発表された「火星から帰ってきた男の巻」の中で、手塚はアラバスターの原型のようなキャラクター、ユダ・ペーターを登場させている。
凶悪殺人犯ユダ・ペーターは当局の追求を逃れて火星に逃亡した。そこで体から電気を発する力を得たユダは、過去の犯罪が時効を迎えた18年後に地球へ帰還し、再び悪事を働き始める。
極端な言い方をすると、いわばアトムの敵役として登場したユダ・ペーターをそのまま主役に据えた作品が『アラバスター』だったのだ。
常に全身黒ずくめの服を着たユダ・ペーターとアラバスターのシルエットは、ブラック・ジャックまで、そっくりそのままつながっている。
そしていよいよ『週刊少年チャンピオン』73年11月19日号から『ブラック・ジャック』の連載が始まる。
主人公の青年ブラック・ジャックは天才外科医でありながら医師免許を持っておらず、ワケアリの患者を治療するために高額な報酬を要求する。
ブラック・ジャックは、いったいなぜそれほどお金に執着するのか、顔の大きな傷はいったいいつついたものなのか。
当初は謎だらけで怖いだけの男だった主人公の素顔が回を追うごとに少しずつ明らかになっていくにつれ、彼に多くのファンがつくようになった。
そして1話読み切り形式の短期集中連載として始まったこの作品は、それに伴い人気を上げていき、足かけ10年という長期連載となった。
長い苦闘の末に、手塚治虫は『ブラック・ジャック』に、ついに自分流アンチヒーローのひとつの完成形を生み出したのである。
それでは最後に、手塚治虫自身がこれまで振り返ってきた試行錯誤の過程について、いったいどんなことを語っているか、それをまとめて振り返ってみることにしよう。
先に言っておくと、これらの文章に書かれているのは、手塚の「失敗した」という懺悔の気持ちと、「残念だった」という後悔の思いがほとんどだ。
だけどそんな地を這うような汗と努力の結果が『ブラック・ジャック』として結実したのだとしたら、それまでの失敗と後悔もそれぞれがかけがえのない貴重な種子だったことがよく分かるだろう。
まずは「青騎士の巻」発表当時の思いを振り返ったエッセイからの引用を紹介しよう。
78年に発表されたこのエッセイは、手塚が匿名の誰かさんと対談をしているというスタイルで書かれている。
「ところで、鉄腕アトムを敵役にしてしまうという話があったと聞いているが......」
「かつて、アトムの図式が飽きられたときに、いっそアトムを魅力あるワルにしちまったら、という声があったんだ。劇画の『ワル』(※編注:70~72年、原作:真樹日佐夫、作画:影丸譲也、名門高校を舞台に不良と学校の戦いを描いた)がヒットする前の頃だがね。
だがこの手のものは、一面、ワルを徹底的に割り切ってワルに、ヒーローはあくまで自分側に、という、読者の根本的な欲求があってね、『スター・ウォーズ』がヒットしているのもそれだし」
「『水戸黄門』もいぜんとして受けてるし」
「だから、アトムはアトムでなきゃならんのだ。ましてやスーパーマンにおいてをや。だから余計悪役側を念入りに豪華ケンランと描(えが)くべきなのだ」
(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集3』「鉄腕アトムとスーパーマン」より ※初出は『月刊スーパーマン』1978年1月号)
続いて『バンパイヤ』の連載が始まって半年後に発表されたエッセイより。この文章でも、手塚が、自分が目指しているものと読者が期待するものが大きくかけ離れていることに悩んでいる様子がうかがえる。
最近、ある少年誌に、「バンパイヤ」というマンガをはじめた。これに物凄く非難が集中した。
「まれにみる駄作! やめちまえ。手塚はもう終わりだ」
「バカヤロー手塚、絵は荒涼、ストーリーは陳腐。独創のカケラもない。そんなに金が儲けたいか」
ぼくはとび上がり、ノド仏をかきむしり、鼻毛を五本ずつひっこ抜き、ウオノメをナイフでけずりとって激怒する。
(中略)
「バンパイヤ」は(中略)「マクベス」のパロディである。ボクはシェイクスピアは斎藤茂吉(さいとうもきち)氏ぐらい好きだが、「マクベス」と「リチャード三世」だけは大嫌いだ。あのロシア料理の羊みたいなどぎつさが手塚節に合わないらしい。これを使う気になったのは、「悪とはなにか」という、愚にもつかないテーマの物語の、骨組みにしたかったからだ。
(中略)
ボクの作品は、今後、いったいどこへいけばいいのだろうか。ボクの気持ちと裏腹に、時代がある方向へつっ走っているとすれば、もういままでの手塚治虫は、死んでしまったのかもしれない。「狡知をもっている」はずの手塚治虫は、フェニックスのように生まれ変わって、巧妙に別の方角へ歩いていくかもしれない。そういう時期のジレンマが「バンパイヤ」などを描く気を起こさせたのだとすれば、マクベスの三人の妖婆は、ボクにその方角を示してくれそうな気がするのだが。
(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集3』より。※初出は『話の特集』1966年10月号所収「手塚治虫への弔事」)
最後に『アラバスター』についても、手塚はこんなことを記している。
どんなに出版社から本にさせろとたのまれても、どうしても気がのらない作品ってものがあるものです。
名をあげるとなんですが、「ダスト18」「ブルンガ1世」「ハリケーンZ」エトセトラ......それにこの「アラバスター」
(中略)
「アラバスター」は、なにより、物語の暗さがいやなのです。江戸川乱歩の「一寸法師」とか「淫獣」などのようなグロテスクで淫靡なロマンを描こうと思ってはじめたのが失敗のもとです。ぼくには、どうも徹底的に救われないニヒルな作品をかくくせがあって、この「アラバスター」もそれにおちこんでしまったのです。
(講談社版手塚治虫漫画全集『アラバスター』第2巻「あとがき」より)
いかがだっただろうか。どの作品についても、手塚の後悔に満ちた言葉が連綿と書き連ねられている。中でも『アラバスター』は、単行本のあとがきで「単行本にしたくなかった」とまで書いているとは、よほど失敗作だったという気持ちが強かったようである。
だけど、ここまで読んでくださった皆さんには、どの作品も『ブラック・ジャック』誕生に至る貴重な道筋だったことがおわかりいただけたはずだ。
ここに紹介した作品の中に興味を持ったものがひとつでもあれば、ぜひ手にとって読んでみていただきたい。『ブラック・ジャック』誕生前の宝石の原石を、そこかしこに見つけることができるだろう。
さて次回は『ブラック・ジャック』のもうひとつのユニークポイントである、医者が主人公の医療マンガという点について、過去の医者マンガの系譜を振り返りつつ深掘りいたします。
それではまた次回!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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