2023/01/13
写真と文/黒沢哲哉
手塚治虫の代表作のひとつである『ブラック・ジャック』が2023年、連載開始50周年を迎えた。1973年11月に『週刊少年チャンピオン』で連載が始まって以来、いまだ人気の衰えないこの名作だけど、この作品がいったいどんな時代にどんないきさつから生まれたものだったのか、よくご存知ない方も多いだろう。そこで「『ブラック・ジャック』再入門」と題して、この作品誕生の背景と手塚の試行錯誤の日々を振り返ってみたい。第1回は、『ブラック・ジャック』誕生にいたる手塚流アンチヒーローの系譜を振り返ります!!
主人公のあだ名であるブラック・ジャックという名前について、手塚は最初に刊行された単行本でこう解説している。
ブラック・ジャックとは、金属製(昔は皮製だった)のコップのことですが、海賊の旗...あのがい骨をぶっちがえたマークの意味もあります。お金をふんだくったり、荒っぽくメスで切りきざむというわけで、海賊に見立てたのです。いわゆる「ブラック・ジャック」というトランプのゲームとは関係ありません。
(少年チャンピオン・コミックス版『ブラック・ジャック』カバー袖のまえがきより)
ブラック・ジャックとは、まさに手塚流アンチヒーローを代表するものとして命名された名前だったのである。
話は『ブラック・ジャック』の連載が始まる8年前の1965年にさかのぼる。
このころ手塚はある危機感を抱いていた。新人マンガ家が続々とデビューして新鮮な作品を発表する中で、これまでトップを独走してきた手塚マンガが、少しずつ飽きられてきているのではないかという危機感だ。
光文社の月刊誌『少年』で52年に始まり連載13年目に入っていた手塚の代表作『鉄腕アトム』も、63年にテレビアニメ化されて大ヒットしたときがピークで、その後はマンネリ化がささやかれるようになっていた。
そんなとき、『少年』で新たに手塚の担当となった編集者から、アトムのキャラクターを変えるべきだといってこんな提案を受けたという。
「アトムを悪い子にかえてみてください!!」
編集者がこう言ったのには理由があった。それは"劇画"の台頭だ。
劇画とは、辰巳ヨシヒロによって50年代末に提唱されたマンガの新しい表現手法だった。従来の手塚マンガのような単純化された滑らかな線ではなく、あえて余分な線を残した荒々しい描線で描く。
ストーリーの面でも、劇画はわかりやすい勧善懲悪を描くのではなく、恨みや妬み、欲望など、人間の"業"に迫るドラマを展開した。主人公が子どもではなくおとなで、しかも悪人やアウトローである場合も多く、犯罪者の複雑な心情や心の葛藤にまで深く斬り込んでいった。
こうした大胆な試みによって、劇画はそれまで子どものものだったマンガの読者層を大人にまで広げていったのだ。さいとう・たかを、白土三平、小島剛夕、佐藤まさあきといった実力派の劇画作家も続々と誕生した。
劇画は、当初、貸本店専門の雑誌や単行本からスタートしたが、60年代の半ばごろには、いよいよ当時の手塚のホームグラウンド少年雑誌にまで勢力を広げてきたころだった。先の編集者の発言は、そうした流れの中で出てきたものだったのだ。
そして描かれたのが『少年』65年10月号から始まった『鉄腕アトム』「青騎士の巻」だった。
ある日、人間の命令を聞かない青騎士というロボットが現れる。
『鉄腕アトム』の世界にはロボット法という法律があって、ロボットはすべてこの法律に従うように設計されているはずだった。ところが青騎士はその法律を平然と破ったのだ。
あわてた学者たちが調べてみると、ロボットの中に青騎士と同じような性質を持つ"青騎士型"と呼ばれるロボットが一定数存在していることが分かった。
人間たちはロボット不信におちいり、ついにロボットたちを弾圧し始める!
それでもアトムは最初は人間の味方をしていたが、両親まで収容所送りにされてしまったことで、ついに人間との決別を決意する。そして青騎士と合流して、ロボットだけの独立国を建設しようという計画に加わるのだ。
結論から言うと、アトムを"悪い子"にしたことで『鉄腕アトム』の人気は目に見えて下降していった。
連載当時、リアルタイムで『少年』を読んでいたぼく(黒沢)も、アトムが人間への怒りを叫ぶ場面には大きなショックを受けた。
それでも最後にはきっとアトムが両者を和解に導いてくれるに違いないと思って読み続けたのだが......このお話の最後に待っていたのは悲惨な結末だった。
アトムは人間を殺そうとする青騎士の前に立ちはだかり、その結果、頭部を破壊されてお茶の水博士でさえ修理のしようがないほどに壊れてしまうのだ。
"悪い子"になったアトムがどうにも制御できなくなった手塚は、アトムをいったん破壊して生まれ変わらせようと考えたのだろう。その後、壊れたアトムは天馬博士の手によって新生アトムとして生まれ変わった。そして「メラニン一族の巻」「ミーバの巻」と続いたエピソードの中で、アトムは少しずつ元の善良な少年ロボットへと性格を戻していったのだ。
しかし、一度失った読者からの信頼を取り戻すことはできなかった。後年、このときのことを振り返ったエッセイマンガの中で、手塚はこう語っている。
──アトムの性格をかえてから アトムの人気は目にみえておちてしまいました もう 手おくれでした
(サンコミックス版『鉄腕アトム』19巻まえがきマンガより)
そして『鉄腕アトム』は、雑誌『少年』が68年3月号で休刊したのと同時にひっそりと連載を終えた。
アトムを"悪い子"にすることには失敗した手塚だったが、劇画の台頭に対抗するには"魅力ある悪"を創造すること、すなわち「アンチヒーロー」を創造することが必須だというのは、編集者に言われるまでもなく、手塚自身がよく分かっていることだった。
そもそもハッピーエンドだけがマンガではない、というのは手塚が終戦直後にストーリーマンガを発表し始めた当初から提唱し続けてきたことだったのだ。
手塚は「青騎士の巻」の連載と並行して、新たなアンチヒーロー像を模索し続けていたのだろう。その結果はすぐに現れる。
『少年』66年3月号で「青騎士の巻」の連載を終えると、その3か月後に『週刊少年サンデー』で新たな連載を始めたのだ。タイトルは『バンパイヤ』。
『バンパイヤ』は、ひとりの少年が、行方不明の父を捜しに田舎から上京してくるところから始まる。じつはこの少年・立花トッペイは、月を見たり激しい怒りに震えるとオオカミに変身するバンパイヤ族だった。トッペイは、オオカミに変身すると完全に理性を失い、人間にも容赦襲いかかる。
そんなトッペイの正体を偶然知り、ひそかにほくそ笑んでいるもうひとりの少年がいた。その名を間久部緑郎(まくべろくろう)、通称ロック。
ロックは見かけはナイーブそうな美少年だが、その正体は恩人をも平気で裏切り、人殺しさえ何とも思わない。冷酷で悪逆非道(あくぎゃくひどう)、まさに悪魔の申し子のような少年だった。ロックには世界を支配するという野望があり、その企みにトッペイを巻き込んでいく。
手塚が少年誌で初めて描いたふたりの本格的なアンチヒーロー。それが『バンパイヤ』のトッペイとロックだった。特にロックのナルシストぶりと残虐性にはゾクゾクするほどの魅力があった。連載が始まった当初はかなり戸惑ったぼくも、ロックの魅力にどんどん引き込まれていったのだ。
だけど手塚ファンの中には拒否反応を示した人も多かったようで、『バンパイヤ』は人気的にはあまりふるわず、未完のまま連載を終えることになった。
だが手塚のアンチヒーロー創造の試みはもちろんこれで終わりではない。いやむしろここが始まりだったのだ。
手塚が『バンパイヤ』に続いて『週刊少年サンデー』67年8月27日号から連載を開始したのが『どろろ』だ。
舞台は魑魅魍魎(ちみもうりょう)がはびこる戦国時代。主人公の少年・百鬼丸は、目や耳や手足など体の48か所を48匹の魔物に奪われた呪われた姿でこの世に生まれ落ちた。
やがて成長した百鬼丸は、魔物を1匹ずつ倒しては奪われた体のパーツを1つずつ取り戻していくというお話だ。
生まれながらに過酷な運命を背負った百鬼丸は、自分を助けてくれた医者に対して大きな恩を感じている一方、人間のエゴに対しては強い拒否感を持っており、赤の他人に対する不信感も根強い。
『バンパイヤ』の間久部緑郎は、人間社会全体に対して強烈な敵意を抱いていたが、それが彼のどんな経験に由来しているのか。彼の過去に何があったのか、作品の中でそれらはほとんど語られていない。
それはそれで正体不明な不気味さでだけど、今回は百鬼丸の生い立ちと、戦国時代という殺伐とした時代状況をきっちりと描くことで、孤独なアンチヒーローという百鬼丸の横顔をより立体的に浮き彫りにしてみせたのだ。
ワケアリの過去を持ったアンチヒーローということで、百鬼丸はブラック・ジャックの直系の先祖のひとりだったのである。
(つづく)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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