2023/03/03
写真と文/黒沢哲哉
手塚治虫の代表作のひとつである『ブラック・ジャック』が2023年、連載開始50周年を迎えた。1973年11月に『週刊少年チャンピオン』で連載が始まって以来、いまだ人気の衰えない名作だけど、この作品がいったいどんな時代にどんないきさつから生まれたものだったのか、よくご存知ない方も多いだろう。そこで「ブラック・ジャック再入門」と題して、誕生の背景と手塚の試行錯誤の日々を振り返ってみたい。その第2回目は、習作時代の作品から『ブラック・ジャック』に至る、手塚の医療マンガの流れを読み解きます!!
前回までのコラムでは、手塚マンガが劇画に押されて人気低迷する中、さまざまな試行錯誤を経て、無免許外科医ブラック・ジャックというユニークなアンチヒーローを生み出すまでの過程を振り返った。
今回は「医療マンガ」という視点から『ブラック・ジャック』というマンガを深掘りしてみよう。
ご存じの方も多いと思うが、手塚治虫は医師免許を持っていた。
手塚は、太平洋戦争末期の1945年7月に16歳で大阪帝国大学(現・大阪大学)附属医学専門部に入学し、終戦後の51年3月、23歳で同大学を卒業した。ただしこのころにはもうマンガ家の道を進むことに決めていた。。
だがそれから10年後、奈良県立医科大学であらためて勉強をし直し、61年1月に「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」という論文を書いて医学博士の学位をとったのである。
こうしたキャリアを下敷きとして描かれたのが医者を主人公とした作品『ブラック・ジャック』だったのである。
そもそも『ブラック・ジャック』の連載が始まった73年当時、少年マンガの世界には医療マンガというジャンルはまったく存在していなかった。そこに登場したこの作品は、最初は読者の戸惑いもあったのだろう、人気投票の結果も伸び悩んでいたという。だけどやがてこの作品の面白さが理解されてくると人気は急上昇していったのだ。
医者マンガというジャンルがいまだ存在していないとなると、『週刊少年チャンピオン』編集部内でもこの作品をどのジャンルに分類したらいいか迷っていたのだろう。その痕跡が当時出版された『ブラック・ジャック』の単行本に残されている。
秋田書店から刊行されている「少年チャンピオン・コミックス」には「学園コミックス」とか「爆笑コミックス」など、その作品のジャンルが表紙に記載されているが、74年5月に発行された「少年チャンピオン・コミックス」の『ブラック・ジャック』第1巻には、何と「恐怖コミックス」と書かれていたのだ。
確かにページいっぱいにドーンと描かれる手術シーンはグロテスクだし、恐ろしい病気もたくさん登場する。何より正体不明のブラック・ジャックが最初のころはホントに怖かった。なので当時、この単行本を新刊で買ったぼくもこの言葉に違和感はまったく感じなかったし、編集部としてもこれは「恐怖コミック」である、ということで迷いはなかったに違いない。
ちなみにこのジャンル表記は第9巻から「ヒューマンコミックス」に変更され、現在刊行されているものはすべて「ヒューマンコミックス」に統一されている。
ということで「恐怖コミック」として始まった『ブラック・ジャック』であるが、じつは手塚が最初に描いた医療マンガも"恐怖"から始まっていた。
手塚が最初に描いた医者マンガ、それは手塚が旧制中学校の4年生だった45年(昭和20年)、16歳のころにさかのぼる。描かれたマンガのタイトルは『恐怖菌』。
戦争が日に日に激しさを増していく中で描かれたものだったが、残念ながらこの作品は空襲で焼失してしまったという。このマンガについて手塚自身が後年のインタビューで語っているので紹介しよう。
手塚 ちょうど東京大空襲のあったころに大阪も大空襲になって、だいぶ死にました。ぼくの原稿を借りたまま死んじゃったのもいる。原稿が二百何ページか一冊にまとまっていた。これは今でも惜しいんだけれども、貸したままで全部焼けちゃった。
──それは、どんな作品ですか。
手塚 「恐怖菌」というの。SFです。だから、「恐怖菌」と「ロストワールド」と、それから「幽霊男」というのがありまして、この三つがその当時、三部作といっていた。(中略)なくなったのが「恐怖菌」というんだけど、これはあとで、もったいないものだから、アイデアをほんのちょっぴり「タイガー博士」というのに使いました。要するに、得体の知れない細菌がパッと未開の地にはびこってそれが日本に襲ってくる。だから「アンドロメダ病原菌」(編集部注:宇宙から来た細菌の恐怖を描いた69年発表のマイケル・クライトンの小説『アンドロメダ病原体』のこと)あんなような話です。なんかはれてきて、はれてきたところに植物の球根みたいなのができてくるという話です。
(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫漫画の奥義』より。※初出は1988-89年『子どもの文化』所収「マンガとの出会い」)
手塚の初の医療マンガ『恐怖菌』。この作品を空襲で失ったことがかなり残念だったようで、手塚はその後、この作品のリメイクや同じテーマを扱った作品をいくつも描いている。
その最初のリメイクが、終戦からわずか6日後の45年8月21日から描き始めた、タイトルも同じ『恐怖菌』だった。もちろんこれもプロのマンガ家としてデビューする前の習作である。幸いなことにこの2度目の習作は手塚の手元に残り、2010年に小学館クリエイティブから刊行された『手塚治虫 創作ノートと初期作品集』に収録された。
舞台は底抜大学という大学の医学部。そこへ奇妙な患者が運び込まれる。患者は両手が異様に肥大化し、逆に頭がどんどん縮小していた。そして最後には頭部が完全に消失し、患者は息絶えた。そのおぞましい様子を見た医師たちは思わずこう叫ぶ。
「恐怖病だ!!」
のびのびと描かれた絵のタッチからは、ようやく平和な時代が訪れて自由にマンガを描けるようになった手塚の喜びがあふれている。だが残念なことにこの戦後版『恐怖菌』はプロローグ部分を描いたところで45年11月以降、執筆が中断してしまった。
その理由は、当時の手塚の状況を振り返ると簡単に推測できる。手塚はこの翌年の46年1月から『少国民新聞』(後の『毎日小学生新聞』)大阪版でプロとしてのデビュー作となる4コママンガ『マァチャンの日記帳』の連載を始めている。つまりこの初仕事に注力するために、自主制作作品である『恐怖菌』の方はやむなく中断したということだろう。
その後、手塚は40~50年代にかけて大阪の出版社から描き下ろしのマンガ単行本を何冊も出版するようになった。
そしてこのころ再び『恐怖菌』のリメイクを試みた痕跡が残されている。市販のノートに『恐怖菌』というタイトルで30数ページのネーム(マンガの下書き)が描かれたのだ。このネームも『手塚治虫 創作ノートと初期作品集』に収録されているので、その内容を知ることができる。
物語のプロローグは戦後すぐに描かれた『恐怖菌』とよく似ている。ヒゲオヤジ演じる武田博士の元に、手が異様に肥大化した患者が運び込まれ、その後死亡する。その患者が、発症する前に蜂に刺されたと証言していたことから、武田博士は息子のケン一とともに蜂の巣の調査に向かうが、その調査から戻った直後、武田博士も変死してしまう。果たして武田博士も蜂に刺されたことで死んだのか。だが他殺の可能性も捨てきれない......。
と、ミステリー気分が高まったところでネームは中断されている。中断の理由は不明だが、残念ながらこの2度目のリメイク版『恐怖菌』も作品化には至らなかった。
続く三度目のリメイクは、前出のインタビューの中で手塚が語っている『タイガー博士』だ。『タイガー博士』(原題:タイガー博士の珍旅行)は、50年に新生閣の雑誌『漫画と読物』に連載された作品だ。ただしここで『タイガー博士』と言っているのは手塚の言い間違いか勘違いで、リメイクらしい作品は『タイガー博士』と同時期に『漫画と読物』「春の臨時増刊号」に発表された読み切り『くるったジャングル』(50)と思われる。
ある日、アフリカで人間の体の一部が異様に巨大化する奇病が発生する。その患者はジャングルで赤いハチに刺されたと証言したことから、科学者たちは防護服を着てジャングルへと向かった。一行はその奇病がゾウや鳥など、他の野生動物にも次々と広がっていることを目撃する。
実はこの奇病の原因は宇宙から落ちてきた隕石に付着していた病原菌が原因だった、というお話だ。
ここで手塚はようやく10代のころから温め続けていた"恐怖菌"の構想をマンガとして発表することができたのだが、読み切り1作だけでは消化不良だったようで、さらにその2年後の52年、こんどは講談社の雑誌『少年クラブ』に連載中の『ロック冒険記』の中にも、体の一部が巨大化する奇病を登場させている。
19XX年、地球にディモン星という巨大な星が大接近する。ただちに探検隊が組織され、ロック少年を隊長とする一行がディモン星へと向かった。ところがディモン星に到着したとたん、隊員たちの間に体の一部が巨大化する謎の病気が発生する!
恐怖にかられた隊員たちはロックと日本人少年大助を残してロケットで逃げ出してしまう。しかし結局この奇病は宇宙空間にただよう病原菌によるものだったらしいことが分かり、ディモン星に残されたロックと大作の新たな冒険が始まるのだ。
やがて60年代の終りごろから青年向けマンガ雑誌が相次いで創刊すると、手塚はここでも 医療マンガを発表している。70年に『ビッグコミック』で連載を始めた『きりひと讃歌』がそれだ。この作品もまた『恐怖菌』を下敷きにした作品だった。
物語はある巨大な大学病院から始まる。主人公はこの病院に勤める青年医師・小山内桐人。いまこの病院で医師たちが直面していたのが、人間の体が獣のように変化する謎の奇病「モンモウ病」だった。桐人は、この病気の正体を追ううちに自分自身もその病気にかかってしまう。
変わり果てた獣の姿になってしまった桐人。だが彼はそれでも医者としてのプライドを捨てず、差別や人間の醜いエゴに抗いながら、この謎の病気に立ち向かっていく。
この『きりひと讃歌』は読者の反響も良く、この作品で手応えを得たことが、当時の少年マンガ誌では異例の医療マンガ『ブラック・ジャック』発表へとつながっていったのである。
(つづく)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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