写真と文/黒沢哲哉 地図と絵/つのがい
風光明媚な土地柄の多い神奈川県西部の虫さんぽ+、その景色を楽しむ間も惜しんで虫さんぽ+隊が次に向かったのは箱根! 17世紀・江戸時代はじめから営業を続ける由緒正しい老舗の旅館・元湯 環翠楼と手塚治虫の関係にせまります!
神奈川県西部をめぐる今回の虫さんぽ+(プラス)、前回までのさんぽで2つのキーワードの謎は解けた。残るキーワードは"団"ひとつ。だがこの謎はまだ解けていない。
"辻"と"湯"の2つのキーワードはそれぞれ地名を示していたが、"団"は地名ではないようだ。では何なのか!?
我々は頭の中にインプットされている手塚治虫データベースの中に、"団"という字に関係する何かがないか検索をかけてみた。
1948年に発表された『吸血魔団』という手塚先生の作品があるけど、今回は関係がなさそうだ。『鉄腕アトム』の「エジプト陰謀団の秘密」(1959年)も関係ない......。
そのときだ、手塚先生に関係する、ある"団"が見つかった。しかもその"団"は神奈川県のとある場所にもゆかりが深いということだ。これだ、これに間違いない!!
我々は湯河原駅からJR東海道線に乗って小田原駅まで戻り、そこから箱根登山鉄道に乗り換えた。
小田原駅から4駅、我々は箱根湯本駅で下車した。ここから徒歩13分ほどのところに目指す場所があるはずだ。そう思って駅前で地図を見ていると、ロータリーに停車していたマイクロバスの運転手さんが降りて声をかけてきた。
「虫さんぽ+(プラス)隊の皆さんですね。連絡をいただいてお待ちしておりました。さあ、どうぞ、お乗りください」
招待状の差出人は、ここでも先にアポ取りをしてくれていたようだ。
このマイクロバスは"その場所"へ向かう送迎バスで、ひとり100円でそこまで連れて行ってくれるという。
そしておよそ3分で到着した"目的地"、そこは箱根の老舗旅館「元湯 環翠楼」である。
創業400年、目の前にそびえる重厚な木造4階建ての建物は、大正8年(1919年)に建てられたもので国の登録有形文化財に指定されている。
この歴史ある老舗旅館と手塚先生にどんな関係があるのだろうか。それを結ぶキーワードが"団"なのだ!
玄関を入ると、元湯 環翠楼の統括マネージャー・鈴木純子さんが出迎えてくださった。
「うちに宿泊された手塚先生と漫画集団のことを聞きたいということですね」
鈴木さんは開口一番こう言われた。
そうなのだ、ここ元湯 環翠楼は手塚先生が所属していた漫画家の集まりである「漫画集団」の漫画家たちがひいきにしていた宿で、1950年代から70年代にかけての漫画集団全盛期にはここで毎年大忘年会が開催されていたのだった。
鈴木さんは、
「わたしがここへ来たのは25年くらい前なので、それ以前のことはわからないんですが......」
と前置きされながらも蔵を探索して漫画集団の関係資料を探してくれたり、かつて旅館で番頭をされていたKさん(故人)から聞いた話をメモっておくなど、いろいろと準備をしてくださっていた。
「はっきりした時期はわかりませんが、最初は文藝春秋の編集者が漫画家さんをお連れしてうちに宿泊されたのが始まりだったようです。
それから漫画家さんが個人でお泊りに来られて、それがやがて漫画集団の忘年会につながっていったのだと思います」
鈴木さんからいただいたパンフレットによると、元湯 環翠楼の歴史は、今からおよそ400年前の慶長9年(1604年)にさかのぼるという。当時、今の旅館の向かいの塔ノ峰に開かれた元湯がその始まりだそうである。
宿泊されたお客さんにもそうそうたる名前が並ぶ。水戸光圀、孫文、篤姫、夏目漱石、島崎藤村、菊池寛など。また徳川14代将軍家茂の元に嫁いだ皇女和宮は療養先だったこの地で亡くなっている。
小説家の名前も多く並んでいるので、恐らくこうした作家とのつきあいから編集者がこの旅館を知っていて漫画家をここへ連れてきた。そしてその漫画家さんたちが個人的に訪れるようになり、やがて漫画集団として忘年会を開くようになったということのようだ。
漫画集団の環翠楼での忘年会の始まりについては、手塚先生もエッセイで語っているのでそれを紹介しよう。
「この(黒沢注:漫画集団の)忘年会なるものは、敗戦の年から始まっている。最初は大森の料亭で仲間うちだけで呑(の)むことから始まった。二回目は、はじめて箱根湯本の環翠楼であった。ところが、大森でもひどい喧嘩(けんか)などがあったが、この環翠楼では、それに輪をかけて、すさまじいものになった。翌年、子供マンガ新聞の一泊招待会がこの箱根湯本で開かれ、その翌日を例によって忘年会にしようということになって、一パイ機嫌の連中が、ぞろぞろと環翠楼へ乗りこんだら、
「あなたがたでは、とてもお泊めできません! すぐ、出てっていただきましょう」
と、語気あらく環翠楼のご主人から断られた。
「いや、去年は申し訳なかった。今年は、チャンと静かにやるから......もう一度お願いしたい」
と平謝りの末に、やっと開くことができた。そして、この回で、集団の信用は回復し、それから名物となって、毎年ここで開かれる。出版社やバーの綺麗どころや、知名人などを招待するので、だんだん趣向を凝らして、やりかたが大げさになった」
(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集1』より ※初出は1969年毎日新聞社刊『ぼくはマンガ家』)
手塚プロの公式ホームページで公開されている年表によると、手塚先生が漫画集団の同人になったのは1964年9月のことだ。
そして68年12月15日の忘年会ではピアノを披露し、「水虫のうた」という題で講演を行い、さらには「万国博への提案」の審査委員をつとめたとある。
この記述だけでは何のことやらさっぱりわからないが、漫画家の集まりらしく漫画集団の忘年会は、このように毎回さまざまなパロディ的趣向が凝らされていて、冗談か真面目かわからないような企画が盛りだくさんだったようだ。
後年ぼくが入手したチラシやポスターからもその様子がうかがえるので、当時の雰囲気を味わっていただきたい。そもそも忘年会のためにこんなチラシやポスターを作るところからも、この忘年会にメンバーの情熱がうかがえる。
鈴木さんによればその忘年会の様子も、かなりしっちゃかめっちゃかだったようである。
「大広間に70~80人、多いときは100人以上集まりましてね、芸者さんを呼んで、(チップの)札びらが飛び交うような、昔の宴会です。テレビで拝見するときは立派な紳士で文化人という方も、ここでは素にもどって自由にはめを外せる、そんな場所だったんでしょう。
宴会というと普通は6時か7時ごろから始まりますが、漫画集団の忘年会はもう4時ごろから始まっていました。料理がまだですよと言っても、あるものでいいから、とおっしゃられて。そして宴会は夜中まで続きます。あるときは大量に仕入れてあったビールがすべてなくなってしまって、急いで買い出しに行ったこともありました」
なるほど、いい時代だったんですね。
手塚先生が漫画集団の同人になった翌年の65年12月26日、手塚先生はここ環翠楼で、ある人物とある歴史的な契約を結んでいた!
その事実を記録していたのはマンガ家で映像制作会社ピー・プロダクションを創立したうしおそうじ氏だ。
うしおは当時、手塚が雑誌『少年画報』に連載していたマンガ『マグマ大使』を読んで気に入り、ぜひ自社で特撮テレビ映画化したいと考えた。
そして年の瀬も迫ったこの日、手塚が漫画集団の忘年会に出席していると聞いたうしおは、手塚から直接映像化の許可をもらおうと、漫画集団同人の漫画家・古沢日出夫のダットサンに便乗して一路箱根へと向かったのである。
以下、少し長いけど、うしおの文章を引用しよう。当時の漫画集団の勢いと宴会の熱気がリアルに活写されている。
「十二月の第四日曜日、集団恒例の忘年会が箱根で開催された。当時の漫画集団の権勢めざましく、マスコミのリードを握り、オピニオン・リーダーとして自他ともに許す存在だった。『文藝春秋』と組み、地方各地に文化講演会で巡回したり、社会還元のサービスと称し、文士劇を都心の大劇場で催して銀座あたりのホステスと騒いだりして、耳目を集めていた時代である。
(中略)
忘年会場の塔ノ沢・環翠楼には、六時前に到着した。二人で宴会場に入っていくと、たいへんな数の漫画家、マスコミ関係者たちがぎっしり詰めて、天井には煙草の紫煙がたなびいている。前夜から泊まり込んでいる集団メンバーは、酒浸りの酔態で、片手に徳利やビール瓶で客にサービスしているが、ほとんど呂律もまわらぬありさまである。
この大宴会の中から、ボクは手塚を探し出すのにかなり苦労した。
急に大きな拍手が湧いた。舞台を見ると永井保が全身素っ裸で丸盆二枚をもって登場し、音楽に合わせて得意の隠し芸がはじまった。永井保の白い裸体は踊りだしても紅潮せず、ますます青白く透明感を添え、音楽(ボレロだったような気がする)に合わせて巧みに秘所を隠し二枚の盆で踊り続ける。
ぼくは「いかん、こんな隠し芸を見てる場合じゃない。ここまで乗り込んできたのは手塚治虫に会いにきたのだ!」と我に返って、広い宴会場を見渡した」
(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』2007年、草思社刊より)
その後、宴会場の片隅でようやく手塚を発見したうしおは、浴衣姿の手塚を呼び出し、ふとん部屋で『マグマ大使』を特撮テレビ番組化させてもらいたいという話を切り出した。
手塚は最初、実写化はしたくないと言って難色を示したものの、うしおの熱意に押され、ついに自分の名刺の裏に「パイロット版の製作を許可する」という旨のメモを走り書きしたものをうしおに手渡したのである。
このときの詳細な顛末は、2011年のコラムで紹介しているのでそちらをお読みいただきたい。
・手塚マンガあの日あの時 第14回:『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代
と、ここで鈴木さんに館内を案内していただいていたところ、環翠楼社長の梅村美成(よしなり)さんとお会いすることができた。鈴木さんによれば、梅村社長はこの日はこちらへ来る予定がなかったそうで、お会いできてラッキーでした。そこでぜひお話をうかがいたいとお願いしたところ、ご快諾いただいた。
梅村「ぼくは昭和29年生まれですが、漫画集団の宴会は、父親の代のぼくが物心つく前からやってましたね。
うちに古くから来られていたのは近藤日出造先生や横山隆一先生、西川辰美先生などです。それからぼくが個人的に親しくさせていただいていたのが教育漫画や絵地図などを描いておられた永井保先生です。
手塚先生のことでぼくが覚えてるのは、何年の宴会かわからないけど、やなせたかし先生が司会をされていて、後から手塚先生が壇上に上がって、新人です、といって紹介されていた光景です。手塚先生が漫画集団に入ったのが64年だとしたら、ちょうどそのころかも知れないですね。ぼくが子どものころのことだから。
このときは手塚先生に目の前で色紙に鉄腕アトムを描いてもらいましたよ。どこへ行ったかなぁ、どこかにあると思うんですけど。
それから当時手塚先生からはピアノを預かっていたんです。手塚先生はピアノを弾かれますので。オルガンくらいの小さなピアノでしたけど、宴会で弾くから置いておいてくれと言われましてね。このピアノもずっとそのままうちにあったんですが最後はぼろぼろになってしまったので、もしかしたらまだあるかも知れませんが、恐らく処分してしまったんじゃないかなあ」
鈴木さんによれば、ここ環翠楼には昔の大きな蔵が3つもあり、その中に数百年分の歴史がそのままぎっしり詰まっているのだという。だからどこに何があるのか、誰もわからないそうで、もしかしたらいつの日か、梅村社長が手塚先生からもらった色紙やピアノが発掘される日が来るかもしれない。
それから梅村社長によれば、環翠楼に今もあるピアノも、かつて手塚先生がよく弾かれていたということなので、しっかりと写真におさめてきました。ぜひご覧ください!
漫画集団の漫画家の先生方との交流は、梅村さんが社長を引き継いでからも続いていたという。
梅村「ぼくが社長を引き継いで間もなくの70年ごろですが、先生方が、うちにいつでも飲めるバーが欲しいとご要望されましてね、1階にあったプールバーを改装してバーを作ることにしたんです。それで永井保先生にバーの名前を考えてくださいとお願いしたところ、小島功先生に決めてもらうのがいいだろうということになって小島先生が「だったら"バーマンガ"だろう」と言われたので店の名前は「Bar MANGA」と決定しました。そしてその店名の文字は大御所の横山隆一先生に描いていただきました」
うれしいことにこのバーは現在も当時の雰囲気ままで営業されている。ただし最近はお酒を飲むお客さんが減ってしまったために不定期営業となっているとのことだ。
梅村社長は、昔を懐かしむようにしみじみとこうおっしゃった。
梅村「まあ昔は面白かったよ、いろいろと。
漫画集団の忘年会で毎年恒例だったのが永井保先生の裸踊りね。それから東京オリンピックのときには、馬場のぼる先生がアババとか言って、マラソンのアベベ選手のものまねをやっていました。
赤塚先生は少し後から漫画集団に入られたんだけど、みなさん高齢になったので、後半の何年かは赤塚さんが中心になって忘年会をやっていました。
漫画集団として最後に忘年会を開いたのは86年ごろだったと思います。漫画集団の宴会っていうのは、いつもたいてい朝方までやってるわけ。昔はそういうのも大目に見られていたんだけど、最後の方になるとほかのお客様からクレームが入りましてね、
時代が変わってきたんでしょうね。それで、このあたりでそろそろおしまいにしよう、ということになったんじゃないでしょうか」
手塚先生の話題からは外れるが、最後にマネージャーの鈴木さんが大切にされている赤塚先生との思い出を語ってくれた。これも貴重な証言なのでぜひここにとどめておこう。
鈴木さんはこう切り出した。
「黒沢さん、覚えてらっしゃいますかね、赤塚不二夫先生がガンを患っていらっしゃることを公表した記者会見のこと......」
それは1998年3月27日のことだ。赤塚不二夫は新宿で記者会見を開き、食道がんの手術を無事に終えたことを報告した。この会見が驚きで、赤塚先生はお酒のグラスを傾けながら、タバコをスパスパと吸いながらの会見だったのだ。
この会見を旅館のテレビで見ていた鈴木さんは、その無謀さに驚いて先生のお体をとても心配したという。
ところがそれから数時間後のこと、なんとさっきまでテレビに出ていた当の赤塚先生が、タクシーで環翠楼に現れたのだ。
鈴木さんは言う。
「わたしはもうびっくりしましてね。先生、さっきテレビで会見を見たばっかりなのに、どうなさったんですか!? と聞くと、東京にいるとマスコミがうるさいから逃げてきたんだよ、とおっしゃって。まったくの手ぶらで財布も持ってらっしゃらなくて、タクシーの代金もどうやって払ったかもわからないんですが、そんなのはいつものことだからいいんです。だけどご家族には言ってこられたんですよね、と聞くと言ってないと。
それで大変だということで、先生には内緒で奥様の真知子さんに電話をしたところ、すぐにこちらへ迎えに来るとおっしゃられたんです。
それまでに先生がまたどこかへ行かれてしまうといけませんので、わたしが引き止め役をおおせつかいましてね、Bar MANGA でお酒を飲む先生のお相手をずっとしておりました。
赤塚先生は下ネタがお得意なんですね。今だったら私も平気でお相手できるんですが、当時は若かったですから、顔を真っ赤にして顔をひきつらせながら、ずっと先生のお話を聞いておりました」
赤塚不二夫はこの記者会見から4年後の2002年4月に脳内出血を起こして倒れ、ほとんど意識が戻らないままずっと眠り続け、6年後の2008年8月2日に亡くなった。
98年のあの日、赤塚を迎えに東京から環翠楼へ駆けつけた奥さんの真知子さんは、06年にすでに鬼籍に入っており、赤塚が亡くなる3日前の7月30日には前妻の登茂子さんもこの世を去っていた 。
梅村社長と鈴木さんから、こうして手塚先生や赤塚先生など、漫画集団の皆さんのお話をうかがう中で、おふたりがしきりにおっしゃっていたのは、当時、漫画集団の皆さんを直接おもてなしした番頭のKさんからもっと話を聞いておくべきだった、ということだった。
だけど今回、おふたりの貴重なお話をうかがうことができ、それを記録に残せたことにも、かけがえのない価値があると思います。
梅村社長、鈴木さん、貴重なお話、ありがとうございました!!
さて今回も我々はぶじに3つのキーワードを解読することができた。あとはゆっくりと温泉につかって帰るとしよう。
さて次に向かうのは東か西か、みなさん、ぜひ次回のさんぽでもご一緒いたしましょう!!
協力/元湯 環翠楼
今月の虫さんぽキャラクター:「虹のプレリュード」 フレデリック・ショパン
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
つのがい
静岡県生まれ。漫画を描くこと、読むこととは無縁の生活を送ってきたが、2015年転職を境にペンを握る。
絵の練習としてSNSに載せていた「ブラック・ジャック」のパロディ漫画がきっかけで、2016年手塚プロダクション公式の作画ブレーンとなった。
web:https://www.tsunogai.net/
twitter:http://twitter.com/sunxoxome/
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