写真と文/黒沢哲哉 地図と絵/野村正
手塚治虫先生と手塚マンガにゆかりの地をぶらりとお散歩するこのコーナー。かつて手塚先生と多くのマンガ家たちが暮らした伝説のアパート「トキワ荘」周辺を歩く、今回はその後編です!
(※この記事は2009年6月当時の内容をそのまま再録したものです。記事内でご紹介した施設や事実などはすべて取材当時のものとなります)
虫さんぽ・番外編をはさんだので間が空いてしまいましたが、今ぼくは東京都豊島区の南長崎周辺を散歩中です。
手塚治虫先生が、四ツ谷の仮住まいから、かつてここ豊島区にあった新築のアパート・トキワ荘へと引っ越してきたのは、1953年(昭和28年)年春ごろのことでした。当時のトキワ荘の住所は豊島区椎名町五丁目。1964年の住居表示改正によって現在は南長崎三丁目となっている場所です。
手塚先生は、このときすでに『ジャングル大帝』、『鉄腕アトム』、『ロック冒険記』を連載中で、さらに1953年1月からは『リボンの騎士』の連載も始めていました。
仕事が急激に増えた手塚先生は、この年の長者番付で画家部門のトップになります。それを聞きつけてトキワ荘へ取材にやってきた週刊誌記者は、そのときの手塚先生の様子をこう書きました。
「ガタピシしたアパートの、机に本棚だけといってよい、六畳一間の一室で、深夜ペンをとるこの"花形作家"は、地味な紺の背広にベッコウ縁眼鏡、細面の一青年にすぎない」(『週刊朝日』1954年4月11日号)
負けず嫌いの手塚先生は、このようにみすぼらしく書かれたことに憤慨し、豪華な家具やピアノなどをしこたま買い込んだそうで、その様子は、手塚先生の自伝やマンガの中にコミカルに描かれています。
ところで、そのころこの町はどんな雰囲気だったのでしょう。地元の方々にお聞きすると、皆さん口をそろえて「あのころはたいへんなにぎわいだった」とおっしゃいます。
商店街の山政マーケットで八百屋さんを営む増田六郎さん(73)は、「夕方の買い物時間になると、人がすれ違うのも大変なほどだったんだよ」と当時の様子を語ってくれました。「こっちで対応に追われてモタモタしてると、あっちではお金を払わないで品物を持ってかれちゃうんだ(笑)」と、これもせっかちな江戸っ子気質なのでしょうか。
そのあたりの時代背景について、豊島区立郷土資料館の横山恵美さんに話をうかがいました。
横山さんによれば、手塚先生がここへ越してきた昭和20年代後半から昭和40年代にかけては、この町の人口が年々増え続けていた時代だったそうです。
日本が敗戦直後の混乱期をようやく脱け出し、高度経済成長期へと大きくはばたこうとしていた当時、地方から多くの若者が夢を抱えて上京してきました。そんな若者たちにとって、この町は都心への交通の便が良く、家賃相場も比較的安かったため、トキワ荘のような若い人向けのアパートが次々と建っていたのです。
今はひっそりとしてのどかな元トキワ荘周辺ですが、当時は夕方になると商店街の活気溢れる声がいつも聞こえてたんでしょうね。
昼から歩き始めたので、お腹がへってきたぼくは、案内をしてくださっている小出幹雄さんと一緒に、中華料理店「松葉」で昼食にすることにしました。
このお店は、かつてトキワ荘の住人もよく通ったところで、藤子不二雄A先生の半自伝的マンガ『まんが道』にもたびたび登場しています。店内にはマンガ家の直筆サイン色紙や昔のお店の写真などが飾られていて、さながら博物館のようです。
ぼくと小出さんは、小出さんお薦めのつけめんを注文。チャーシューと野菜がたっぷり入った具だくさんのスープはどんぶりからあふれんばかりで、味の方もコクのあるしょうゆ味でとても美味しかったです。
実はトキワ荘記念碑の除幕式の日に、ぼくはここでラーメンを食べたのですが、そちらも東京育ちのぼくにとっては実に懐かしい東京ラーメンの味でした。
さて、お腹がいっぱいになったところで「松葉」を出て商店街をふたたび東へと歩きます。落合電話局前の道の次の路地を入った正面にあるのが、手塚先生の『トキワ荘物語』にも描かれている「子育地蔵尊」(目白通り二又子育地蔵)です。
このお地蔵様は、戦前までは現在の二又交番(南長崎交番)のある三叉路にまつられていたそうで、縁日の日には周辺地域からも多くの人が集まったといいます。しかし昭和13年に目白通りが拡幅されることになり、現在の場所に移されました。
お地蔵様をお参りをしてふと左の方に目をやると、駐車場の向うにトキワ荘があったあたりの家並みが見渡せます。なぜかホッと落ち着く空間で、散歩の途中に缶コーヒーでも飲みながら休憩するにはちょうどいい場所です。あっ、ただし空き缶などのゴミは必ず持ち帰りましょう(笑)。
さあ、ひと休みしたところで散歩も終盤です。サクサク行きましょう。何しろ今回の散歩は紹介する場所が多いですからね。
二又交番から山手通り方向へ進んだ左側のジーンズメイト跡地は、かつて「目白映画」という映画館のあった場所だそうです。
今は映画を観るというと、繁華街や大型複合施設のシネコンへ出かけるというイメージがありますが、昔はどの町にもたいてい映画館が1〜2館あって、買い物帰りにちょっと立ち寄ることができたのです。
映画を、マンガ創作の一番の栄養源としていた若いマンガ家たちはもちろんですが、映画好きの手塚先生も、きっと忙しい合間を縫ってこの映画館に通われたことでしょう。
また映画館の斜め向かいには、石ノ森章太郎先生がよくSF小説を買った「成山堂」という古本屋さんがあったそうですが、ここも現在は当時を偲ぶものは何もなく、ビルの1階におそば屋さんの入っているあたりがその場所だということです。
そしてその古本屋から山手通りへ出た角にあったのが「エデン」という喫茶店でした。ここも石ノ森章太郎先生がお気に入りだったお店で、石ノ森先生の作品にも登場する場所です。
小出さんに最後に案内していただいたのは、かつて手塚先生とほぼ同じ時期にこの町に住んでおられた、マンガ家の田中正雄先生の仕事場のあった場所です。
田中先生は『ダルマくん』、『ライナーくん』などの熱血スポーツマンガで一世を風靡し、後年は児童向け学習マンガなどを多く手がけられました。小出さんによれば、田中先生はいまもご健在で東京近郊に暮らしているということです。
実は、手塚先生や田中先生だけでなく、かつて豊島区から練馬区にかけてのこの一帯には、島田啓三先生をはじめ、高野よしてる先生、芳賀まさお先生、山根一二三先生といった大御所のマンガ家が多く住んでいました。
今では練馬区の大泉・石神井周辺がマンガ家の多く住む地域として有名ですが、かつては豊島区もその仲間だったのです。
講談社の名編集者だった丸山昭氏の著書によると、手塚先生のためにトキワ荘を見つけてきたのは、学童社代表の加藤謙一氏の息子さんだったそうです。学童社というのはこれまた多くの人気マンガ家を排出した伝説の漫画雑誌『漫画少年』を出していた出版社です。ですからその方がここを選んだのも、この場所がマンガの一大"産地"だったからでしょう。
ただ編集者の立場で考えると、狭い地域にマンガ家が集まっていればまとめて原稿が取りやすいというのが本音かもしれませんけどね(笑)。
まぁ事の経緯はともかく、結果として手塚先生がトキワ荘に住み、そこから伝説は始まりました。始まりは本当に何気ないことかもしれませんが、案外、伝説とはそのようなものなのではないでしょうか。
ではまた次回の虫さんぽでお会いいたしましょう!!
小出さんをはじめ、貴重なお話を聞かせてくださった地域の皆様に感謝いたします。
取材・資料協力(順不同)/南長崎ニコニコ商店街、目白通り二又商店会、豊島区、豊島区立郷土資料館、財団法人大宅壮一文庫
(今回の虫さんぽ、3時間26分、5574歩)
(初出:2009/06/18)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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