大阪編 第3回:大阪・十三で戦争の悲惨さを残す文化遺産を訪ねる!
写真と文/黒沢哲哉 地図と絵/つのがい
3つのキーワードの謎を解きながら、手塚治虫先生と手塚マンガに関わる場所を巡る虫さんぽ+(プラス)。前回、2つ目のキーワードに導かれた我々は、手塚先生が戦時中に勤労動員された大阪・中津の軍需工場跡地を巡ることができた。そして今回、手塚先生の旧制中学時代の同級生・金津博直さんが案内してくれたのは......!?
◎ホテルのカフェを出て向かった先は......!!
大阪市淀川区、阪急電鉄十三駅からほど近いホテルプラザオーサカ。このホテルのカフェで金津さんからお話をうかがったぼく黒沢と手塚プロI藤プロデューサーは、ホテルを出て、手塚先生と金津さんがかつて通った旧制北野中学(現・北野高校)界隈を案内していただくことになった。
その道中も金津さんは戦時中の手塚少年との思い出を語ってくれた。
昭和20年4月、手塚先生と金津さんは、本来ならばともに5年生に進級するはずだった。だが戦局の悪化でこの学年だけ1年繰り上げて4年で卒業することになる。そして金津さんは4月から大阪農業専門学校(大阪府立大学農学部の前身)へ進学し、手塚先生は大阪大学に当時新設されたばかりの医学専門部(軍医養成のための専門科)へ進学が決まった。
◎昭和20年6月、大阪大空襲の日に......!!
ということで金津さんは4月から池田市の石橋にある大阪農業専門学校へ通い始めたが、なぜか動員免除にならなかった手塚先生は引き続き中津にある「大阪石綿工業」の工場へ勤労動員で通い続けていた。
金津さんの動員免除が決まった日、手塚先生は工場の更衣室で、金津さんに似顔絵を描いてプレゼントした。
大阪に3度目の大空襲があったのはそれから2か月後の昭和20年6月7日のことだ。午前11時ごろ大阪市内に「空襲警報発令」のサイレンが鳴り響き、12時ごろからアメリカ軍の爆撃機による爆撃が始まった。3月13日から14日にかけての最初の大空襲は夜間の空襲だったが、それに続く6月1日の大空襲は昼間だった。そして今回も昼間の空襲と、大阪上空の制空権はすでにアメリカに完全に奪われていたことが分かる。以下、金津さんのお話だ。
「空襲だっていうんで授業が中止になって、私は石橋の学校から十三の自宅まで帰ろうとしたんですが電車が動いていない。せやから歩いて帰るしかしゃあないんです。途中、豊中のあたりは1トン爆弾が落ちて大変な被害が出てましてね、「そこの学生、けが人を病院まで運ぶのを手伝ってくれ」なんて言われて手伝ったんですけれども、いくらやっても終わらない。「私もこれから大阪まで歩いて帰らなあかんからもう堪忍してください」言うてまた歩きだして......」
戦中戦後の大阪を舞台とした作品『どついたれ』より。大阪の工場で空襲に遭った高塚修(手塚治虫)は、自宅のある宝塚までおよそ30kmを徒歩で帰るしかなかった
◎陸橋から見た十三は焼け野原に......!!
金津さんはこうして池田市の石橋から十三までの約10kmほどの道を自宅へ向かってとぼとぼと歩き始めた。その時だった──。
「途中で手塚くんとバッタリ 会うたんです。手塚くんは中津の工場から宝塚まで、ちょうど私と逆の道をたどって歩いて帰る途中やったんです。
そこで手塚くんは私に「お前、帰っても家焼けとんぞ」と言われたんです。手塚くんは中津から帰る途中にうちの家の近くを通って来ていますから、私の家が空襲で被害に遭ったのを見てきていたんですね。
けど、そう言われても私は帰るしかないんで手塚くんと別れて十三へ向かいました。十三の駅前で国道176号線が陸橋になっているんですが、ようやくそこまで帰ってきて、その上から町を見渡して驚きました。我が家のあったあたりが何もあらへんのですわ。十三駅のプラットホームだけが残っとって、あとは見渡す限り何もない。そこから家までは歩いて10分ほどの距離なんだけど、その間が全部焼けてもうて、だーっと真っ平らなの。
空襲で焼けるいうのは普通の火事と 違うて焼夷弾やら何やらで焼きつくされますからね。残ってんのは、瓦やらレンガやらそういうものだけで、あとは何にもない。
うちは疎開するところもなかったから、家と一緒に子どもの時の写真やら何やら全部もう...焼けてしまいました」
ちなみにこの6月7日の空襲で飛来した米軍機の数はおよそ300機、焼失倒壊戸数55,262戸、被災者は196,618人にのぼった(『大阪市戦災復興誌』1958年大阪市役所刊より)
◎手塚先生のイラストだけは奇跡的に残った!!
空襲で幼いころからの思い出の品を全て失った金津さん。しかし工場の更衣室で手塚先生に描いてもらった似顔絵だけは奇跡的に焼失を免れた。それはなぜだったのか。
「この絵を手塚くんに描いてもろて、それからすぐに新しい学校が始まったでしょ。せやからこの絵はカバンに入れたまま忘れとったんです。そのまま毎日持って学校へ通っとったの。それで6月7日の空襲の後で、あ、これが出てきた言うて気がついてね。せやからたまたまなんやけれども、よくまあ焼け残ったなあ思うてね、今では私のたったひとつの宝物ですわ」
『手塚治虫エッセイ集1』のカット。手塚先生は、勤労動員させられた工場でも隠れてせっせとマンガを描いていた。しかし発表の場がないため、トイレに貼って同僚たちに読んでもらうことに......!! ※マンガの画像は、特記されているもの以外はすべて講談社版手塚治虫漫画全集より
◎戦争の悲惨さを後世に伝える文化遺産......!!
そうこうしているうちに、大阪府立北野高等学校、すなわち旧制北野中学校に着いた。金津さんによれば、校舎は一新されて建物の配置なども旧制中学時代とはまったく変わってしまっているという。しかしそれでも手塚先生や金津さんが通っていた当時を偲べる場所が残っているというのでそこへ案内していただいた。そこは校舎の裏手、本館西側の壁面だ。
この壁面には太平洋戦争当時、米軍機の銃撃によって付けられた28個の銃弾の痕が生々しく残されている。旧制北野中学では戦争中に9名の生徒が命を落とした。その記憶を失わないために、教職員や同窓生の要望で、校舎建て替えに際してもこの壁だけは保存されることになったのだという。
◎金津さんと別れて次なるさんぽへ向かう!
そうこうしているうちに、金津さんのご自宅へ到着した。戦争をはさんで大きく変わりゆく十三の町を見続けてきた金津さんの目に、現代のこの町の風景は果たしてどのように映っているのだろうか。
金津さん、貴重なお話をありがとうございます!
金津さんとはここでお別れ。ぼくは残る3つ目のキーワード「堂」の謎を探るべくひとり阪急電車に乗り込んだ。一方I藤プロデューサーは大阪大空襲についての資料を調べるために大阪府立中之島図書館へ。
しかし残るキーワード「堂」の意味する場所とはいったいどこなのだろうか......。
◎中之島のベンチでひとり......
阪急梅田駅で降りたぼくは、そのまま当てもなく南へ向かってぶらぶらと歩きだした。やがて阪神高速環状一号線の高架道路が見えてくる。その高架をくぐって橋を渡ったところが中之島である。
ぼくはそこのベンチに腰かけて川の流れをぼんやりと見つめる。上流から流れてきた大川がここで中之島にぶつかり2つの流れに分岐する。面白いことにここから川の名前が2つに分れるのだ。中之島の北側を流れる川が堂島川、南側を流れる川が土佐堀川となるのである。
と、そこでぼくはふと気がついた。そう、3つ目のキーワード「堂」の答えはこの堂島川だったのだ!!
この周辺の風景は手塚マンガにもたびたび登場しているが、とくに印象的なのは、高塚修という手塚治虫の分身のようなキャラクターが登場する半自伝的マンガ『どついたれ』(1979-80年)である。
この作品の中で、マンガ家としてデビューしたての高塚は、この堂島川のほとりで戦災孤児の少年たちと出会う。戦災孤児というのは、戦争で家や家族を失い、路上生活をしていた子どもたちのことである。
高塚は、何か食べ物をくれとねだる少年たちに、自分のマンガの下書きを見せる。ところが少年たちはそのマンガにはまったく興味を示さず走り去ってしまう。子どものために描いているはずのマンガを喜んでくれない子どもたち......。無力感に打ちひしがれた高塚は、ひとり堂島川のほとりでうなだれるのだった......。
ちなみにこの堂島川に架かるレトロなデザインの歩行者専用橋「水晶橋」とその周辺の風景は、1970年から71年にかけて発表された『人間昆虫記』にも描かれている。マンガの中の風景とぜひ見くらべてみてください!
こうして我々虫さんぽ隊は謎の招待状に書かれていた3つのキーワードの解読に成功した。ところが、ホッとしていたぼくに、水晶橋の向こうから不審な男が近づいてきた。真っ黒な服を着た男は、後頭部になぜかロウソクのようなものを立てている。男はぼくに1枚の紙切れを手渡すと、ひとこと「さようナラ」とだけ言って立ち去った。
その男のくれた紙片がコレである。それは次なる虫さんぽ+(プラス)の招待状だった。しかも書かれているキーワードは「石」と「社」と「閣」。そして前回とは違い、招待状の端には見慣れた形のシルエットが......。この3つの文字が指し示す手塚スポットとはいったいどこなのか......!?
ということで次回、虫さんぽ+(プラス)第4回からは、この次なる招待状の謎を追って新たな旅が始まります! 次回の虫さんぽでもぜひ謎解きに協力してくださ~~~い!!
今回の貴重なおまけ。金津さん(左)が手塚先生と最後に会ったときの写真。1988年10月31日、手塚先生が同級生の校長先生から依頼されて大阪の豊中市立第三中学校で講演会を行った際、当時第九中学校の校長をしていた金津さんも誘われて駆けつけた。手塚先生が亡くなる3か月前の写真である。※画像提供/金津博直氏
取材協力/金津博直 ホテルプラザオーサカ(順不同、敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
つのがい
静岡県生まれ。漫画を描くこと、読むこととは無縁の生活を送ってきたが、2015年転職を境にペンを握る。
絵の練習としてSNSに載せていた「ブラック・ジャック」のパロディ漫画がきっかけで、2016年手塚プロダクション公式の作画ブレーンとなった。
ブログ:http://tsunogai.blogspot.com/
twitter:http://twitter.com/sunxoxome/
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