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虫さんぽ+(プラス)マイ・ベストさんぽ【東京編】第3話:手塚先生の仕事場へタイムスリップ!!

2020/08/07

マイ・ベストさんぽ【東京編】第3話:手塚先生の仕事場へタイムスリップ!!

写真と文/黒沢哲哉 地図と絵/つのがい

 歴代虫さんぽの中から特に思い出深い虫さんぽを振り返るマイ・ベストさんぽ東京編! 今回は60年以上前の風景が今も残る奇跡の場所を訪ねた2011年の虫さんぽを振り返る。その建物の前に立つと時間が逆戻りして、手塚治虫先生が今もそこで仕事をされているような、そんな気持ちにさえなってくる──それではプレイバック虫さんぽへ、GO!!


◎手塚先生の仕事場めぐりの中でも特別な場所!!

 今回振り返るのは、2011年4月に公開した虫さんぽ第15回:並木ハウスさんぽだっ!!

「並木ハウス」は豊島区雑司が谷にある木造2階建てのアパートで、手塚先生が195410月から57年4月までのおよそ2年半、仕事場兼住居としていた建物である。

 虫さんぽでは、手塚先生の仕事場とその跡地をこれまでさまざまたずねてきた。上京して最初に借りた新宿区四谷の下宿跡地(前々回のマイ・ベストさんぽで紹介)、手塚先生が入居したことをきっかけに多くのマンガ家が入居した伝説のアパート、トキワ荘跡地、そして手塚先生のアニメ製作への情熱が結実した練馬区の虫プロダクションなど。

 それらの中でもこの並木ハウスがとくに貴重なのは、外観ばかりではなく建物の中までがかつて手塚先生がここで仕事をされていた当時とほとんど変わらない状態で現存していることだ。

 その並木ハウスに2011年春、虫さんぽの連載がちょうど3年目に入ったことを記念して、いよいよ満を持して訪ねることになったのだ!

・虫さんぽ 第15回:東京・豊島区雑司が谷 並木ハウス周辺を歩く

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2011年訪問の際の並木ハウス。下の方で紹介している現在の写真と見くらべていただくとほとんど変わっていないことがわかるだろう

◎スペシャルな案内人が決定した!!

 連載3周年ということで、この並木ハウスさんぽでは事前の準備にもいつも以上に力が入っていた。企画会議でまず話が出たのは、手塚先生がここ並木ハウスで仕事をされていた時代をよく知る人にさんぽの案内人をお願いできないかということだ。

 そこで一番に名前があがったのが元講談社編集者の丸山昭さんだった。丸山さんは1953年に講談社へ入社、54年に『少女クラブ』編集部へ配属となり手塚先生の『リボンの騎士』の連載を担当することになった。つまり当時手塚先生の原稿をもらうために並木ハウスへ通い詰めた編集者のひとりだったのだ。

 さっそく丸山さんにご相談したところすぐにご快諾のお返事をいただいた。

 丸山さんはその後、まことに残念なことに2016年の暮れに亡くなられてしまったが、このときはとてもお元気で、手塚先生の在りし日のお仕事ぶりを語る語り部として、メディアの取材や講演会などにも積極的に関わられていた。

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並木ハウス前で待ち合わせた元講談社編集長の丸山昭さん

◎さらにうれしいお知らせが......!!

 丸山さんという最強の助っ人を得たことで勢いづいた虫さんぽ隊にさらなる朗報が舞い込んだ。さんぽにうかがいたいとお願いしていた並木ハウスの大家さんである砂金宏和さんから、手塚先生の元仕事部屋の見学もできますよ、というご連絡をいただいたのだ!

 じつは並木ハウスはなんと今も賃貸アパートとして現役で使用されている。そのため入居者以外は建物内への立ち入り禁止で、元手塚先生の仕事場にも入居者がおられるため、当然ながら室内の見学はできない予定だったのだ。

 しかし今回、砂金さんの方から部屋の借り主さんにお話をしてくださり、借り主さんからのご了解がいただけたため、室内も特別に見学させてもらえることになったのだ。

◎すべては手塚先生の誠実さのおかげ!

 虫さんぽを長年続けてきていつも思うのは、「手塚先生のためならできるだけのことをしたい」と言って、こちらが恐縮するほど積極的に協力してくださる方がとても多いということだ。

 それはなぜか。理由を聞いてみれば納得で、手塚先生がいつ何時どんな人に対しても常に誠実な態度を貫いていたからだったのだ。

 かつて手塚先生と親しく接した方々が皆さん口をそろえて言うのは、先生はどんな人に対しても常に尊敬の態度で接していたということ、決して約束を破らない人だったということ(締め切り以外は)、そしてしばらくごぶさたしていても決して相手のことを忘れない人だったということだ。

 文章にするとどれも当たり前のことのようだがこれを徹底して実践するのはかなり難しい。日々の生活に追われていると、どんなにお世話になった人のことも忘れがちになってしまうし不義理をしてしまうこともある。それがぼくも含めた一般人だろう。ところがそれをあの常識を越えた多忙さの中にいた手塚先生が生涯実践していたのだ。

 だから手塚先生と親しく接した人は何十年たっても先生との思い出を大切にしているし、先生に対して深い恩を感じているのである。

 虫さんぽは、手塚先生の誠実な人柄と、それに接したこれまた多くの誠実な方々によって支えられているのです。

◎57年前の時を超えた建物が目の前に!!

 さて、こうしていよいよ並木ハウスさんぽ当日を迎えた。初めて訪れた並木ハウスは雑司が谷鬼子母神の参道から路地を曲がった奥にひっそりと建っていた。

 大家の砂金さんによれば、並木ハウスはこのさんぽの4年前にリフォームをしたというが、その時もペンキの色や建材などをできるだけ新築当時に近づけるよう努力されたそうである。

 古い建物を見た時によく「まるで昔へタイムスリップしたような」という表現を使うけど、この時こそまさにこの言葉がふさわしいと思った。この建物がまだ建てたばかりの新築で、手塚先生が入居したばかりの風景をそのまま見ているかのような、まさにそんな気持ちがしたのである。

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コンクリート製のしっかりした階段を上がり、手塚先生の部屋があった2階へ......

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並木ハウス2階廊下に立つ丸山さん。左奥のドアが手塚先生の仕事場だった部屋だ

◎懐かしさよりも辛かった思い出が......!!

 間もなくして駅の方から丸山さんがさっそうとした足取りで現れた。丸山さんもこの場所へ来るのは10年ぶりのことだそうでこの日をとても楽しみにされていたという。

 建物の外観をざっと見学した後、砂金さんの奥様の案内でいよいよ建物内へ。そして階段を上がって手塚先生の部屋があった2階へと向かった。

 そこでこの日、ぼくがもっとも印象的だった丸山さんのこんな言葉を聞いたのだった。

 ぼくが丸山さんに何気なく「建物へ入るとやっぱり懐かしいですか?」と尋ねた。すると、丸山さんは苦笑いをしながら間髪入れずにこう答えたのだ。

「いや、この階段には辛い思い出しかないですから。この階段を登るときにはいつも足が重くてね...」とおっしゃったのだ。

 その時一瞬、ぼくには丸山さんの姿が現役時代の編集者のように見えた。

 その後も、この日丸山さんの口から出たのは、手塚先生からいかにして原稿をもらってくるかという苦労のあれこればかりだった。だけどそれを語るときの丸山さんは終始とても楽しそうだった。

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手塚先生の部屋の横には裏口へ出られる階段がある。手塚先生は表から編集者が来たのを察知するとこの裏口を使って逃げたとか......

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手塚先生の仕事部屋内部。室内のどこに机があってどこにステレオセットがあったのか。そしてピアノはどこにあったのか。丸山さんは昨日のことのように説明してくださった

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手塚先生の部屋の横の階段を降りるとこの裏口へ出てくる。まるで逃亡者の隠れ家のような構造である

◎そして現在、並木ハウスは......!!

 そして──丸山さんの案内で並木ハウスをさんぽした2011年春のあの日から早9年が過ぎた。その間、並木ハウスにもほんの少しだけ変化があった。2018年5月、並木ハウスが国の有形文化財に登録されたのだ。

 この建物がいつまでもこのまま残っていて欲しい、その思いはこれで次の世代まで確実に受け継がれることになったのだ。

 先日、久しぶりにその並木ハウスを訪ねてみた。今回はもちろん建物内には入れないが、外観は9年前のあの日とまったく変わっていなかった。日曜日のお昼前だったため、路地に人通りはなく、あの日、丸山さんと待ち合わせた並木ハウスの前には数匹の猫がのんびりとたむろしていた。

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新型コロナ騒動の中、9年ぶりにこの地へやってきた!! しかしこの風景からして9年前とまったく変わっていない

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参道右側の建物が雑司が谷案内処の入っている建物「並木ハウスアネックス」だ。昭和7年に建てられたこの建物も、並木ハウスと一緒に国の有形文化財に登録された。並木ハウスはこの建物の手前の路地を右へ曲がったところにある

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並木ハウスへ向かう前に鬼子母神様へお参り

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並木ハウスアネックスの手前の路地を曲がると正面に並木ハウスが見えた!

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9年前とほとんど変わっていない風景。前回の訪問時に持っていたカメラでは画角が狭すぎて建物の全景を正面からとらえられなかった。なので今回は超広角レンズを持参。ようやく正面から全景を撮ることができた

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並木ハウスにあった前回からの小さな変化。玄関の門扉に「登録有形文化財」と記された文化庁のプレートが掲げられていた

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並木ハウス前でくつろぐネコ達。ここは彼らにとっても住みやすい街のようだ

◎案内処で並木ハウスのVR体験!!

 続いて向かったのは、9年前にも丸山さんと一緒に訪れた雑司が谷案内処だ。ここはこの地域の観光と地域交流のための拠点であり、2階の展示ギャラリーには手塚先生の描いた並木ハウスのイラストが大きなパネルになって展示されている。

 そして前回のさんぽ以後、ここで新たに始まったのが、並木ハウスの内外をVR(Virtual Reality=仮想現実)技術を使ってバーチャル見学ができる「VR並木ハウス」のサービスだ。

 現在はあいにく新型コロナウイルス対策のために一般の方のVR体験は中止となっているが、この日は特別な許可をもらい体温チェックと消毒を徹底することで体験させていただいた。

 案内処の方に用意していただいたヘッドセットをかぶると、目の前のディスプレイに並木ハウス内外の映像が映し出される。手に持ったコントローラーで場所を移動できる。そしてそれぞれの場所で頭を左右に振ったり一歩前へ踏み出したりすると、目の前の映像がその動きに連動して変化するのだ。まさにその場に立って風景を見ているのと同じような感覚だ。並木ハウスの中では玄関の内側、廊下、さらに手塚先生の部屋の中も見学できる。

 前にも書いたように並木ハウスの中は入居者以外立ち入り禁止なので、新型コロナ騒動が収束した際にはぜひこのVRで建物内の雰囲気も味わっていただきたい。所要時間はおよそ5分ほど。体験料は無料である。

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雑司が谷案内処。開館時間:10:30-16:30、休館日:毎週木曜日、問い合わせ:03-6912-5026

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これがVR体験マシンだ。目の周囲に不織布カバーを付けて装着する。

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VRの概要は並木ハウス公式サイトで紹介されている

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いざ黒沢が体験! 映像に合わせて耳元のスピーカーからナレーションが流れる。ナレーションは日本語と英語が選択可能だ。本文にも書いたように本記事公開時点では新型コロナウイルス対策のため、一般の方のVR体験は中止されています

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今回、VR体験の案内をしてくださった雑司が谷案内処応援倶楽部の皆さん。左から関口さん、岡部さん、永瀬さん、小池さん。お世話になりました!

◎雑司が谷ゆかりの手塚作品がまだあった!!

 雑司が谷案内処では最新の話題がもうひとつあった。2020年7月31日より手塚先生にまつわる展示が追加されたのだ。短編作品『白骨船長』のパネル展示である。 この作品は1957年6月号の『おもしろブック』別冊付録として発表されたSF作品で、鬼子母神伝説が物語のベースとなっている。

 手塚先生が並木ハウスから初台の借家へ引っ越したのは1957年4月のことであり、『白骨船長』はまさにその直後に描かれた作品ということになる。手塚先生はきっと並木ハウスで暮らした思い出を元にこの作品を描いたのだろう。

 雑司が谷案内処ではこの作品を全ページ読むこともできる。

 今回の並木ハウス再訪は、外出自粛が叫ばれている中での訪問だったため、ごく短時間の滞在だった。でもきっと次に訪れた時も、この鬼子母神周辺の町並みは今と変わらない風景で出迎えてくれるに違いない。

 さて次回の虫さんぽ+(プラス)ではいったいどこへ向かうのか。ぜひまたご一緒いたしましょう!!

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『白骨船長』はSF連作短編「ライオンブックスシリーズ」のひとつとして発表された

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『白骨船長』より。鬼子母神伝説を物語の枕として、子どもを誘拐する宇宙船の船長の物語が始まる......画像は講談社版手塚治虫漫画全集『ライオンブックス おもしろブック版』第6巻より

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今回も9年前と同様に都電にのってのんびりと帰宅した

協力/並木ハウス、雑司が谷地域文化創造館、雑司が谷案内処、雑司が谷案内処応援倶楽部(順不同、敬称略)

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黒沢哲哉

1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。

手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


sanpo_tsunogai.jpgつのがい
静岡県生まれ。漫画を描くこと、読むこととは無縁の生活を送ってきたが、2015年転職を境にペンを握る。
絵の練習としてSNSに載せていた「ブラック・ジャック」のパロディ漫画がきっかけで、2016年手塚プロダクション公式の作画ブレーンとなった。
web:https://www.tsunogai.net/
twitter:http://twitter.com/sunxoxome/


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・マイ・ベストさんぽ【東京編】第1話:四ツ谷の下宿はどこにある!?

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