写真と文/黒沢哲哉 地図と絵/つのがい
ヒゲオヤジに導かれて訪れた虫さんぽ+(プラス)御茶ノ水編、今回はいよいよ最後のキーワードをめぐって、神田神保町のとある一角を訪れます。手塚先生があの超人気作品のフィナーレを執筆した、という「聖地」が登場ですよ!
御茶ノ水、神田界隈の虫さんぽ+(プラス)、残る最後のキーワードは「詰」である。「詰」の示す手塚治虫スポットはいったいどこなのか!?
前回訪ねた「アトムマンホール」が設置されている明大通りを南へ下ると駿河台下交差点に出る。この交差点を東西に横切る片側3車線の大通りが靖国通りだ。そこをさらに直進して50メートルほど歩くと、右側にガラス張りの巨大なビルが見えてきた。2003年に竣工した「神保町三井ビルディング」である。同ビルの公式サイトによれば地上23階、地下3階で高さは97.9メートル、敷地面積は8,093.26平方メートルだそうである。高さよりもその面積の広さに驚く。
じつはこのビルが建つまでは、このエリアには細い路地が何本も走っていて、小さな飲食店や本の問屋さん、書店の倉庫などの小さな建物が密集して建つ雑然としたエリアだったのだ。それらの建物を丸ごと更地にして建ったのがこのビルなのである。
そして、ぼくの推理では、この路地裏の一角にかつてあった建物こそが、今回目指す手塚先生ゆかりの場所だと思うのだが......。
今は神保町三井ビルディングという巨大なビルが立っている一角。じつはその敷地の一角に、かつて手塚先生がカンヅメになったホテルがあったのだ。そのホテルの名前は「ホテル錦友館」。
古くて小さなビジネスホテルだったけど出版社が作家を"カンヅメ"にするのによく利用したホテルで、手塚先生も一度ならず利用したようだ。
"カンヅメ"というのは出版業界の俗語で、作家に執筆に専念してもらうため、ホテルや旅館などに半ば強制的に(?)宿泊させることを言う。漢字を当てると"館詰め"である。
手塚先生がかつてここ「ホテル錦友館」で仕事をされたことが書かれているのは、元マンガ家で手塚先生のチーフアシスタントを長く勤めた福元一義さんの著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』だ。以下にその文章を引用しよう。
年は1978年、手塚先生が、日本テレビの『24時間テレビ』で放送されるスペシャルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』の製作を開始し、虫プロの倒産以来中断していたアニメとマンガの二足のわらじを再び履いた時期だ。
以下、福元さんの著書より引用。
「八月に入ると漫画部はスタジオを出て、あちこちの仕事場を放浪するスタイルになりました。これは、手塚先生が漫画の仕事に時間を割いているとわかると、ギリギリのスケジュールで仕事をしているアニメ部を刺激してしまうためで、先生自身もできるだけアニメ部と漫画部を接触させないようにしていました。
アシスタントたちは、講談社・錦友館・一橋寮......と、出版社や旅館を転々としながら、『未来人カオス』や『ブラック・ジャック』等を描いていました。そして、そんな八月二日のこと、長机を囲み原稿をやっている我々の部屋へ、急ぎ足で入ってきた手塚先生が、「やあみなさん、ゴクローさんです。今回で『ブラック・ジャック』は終わります。もうちょいですから頑張ってください」
と言いながら、準備された席に着くなり、カリカリといつもの通りペンを走らせ始めました。我々は「えっ?」と一斉に顔を見合せましたが、先生のいつもと変わらない様子に、半信半疑のまま今の言葉を反芻(はんすう)していました。
そしてその日の午後六時。「人生という名のSL」二〇ページが脱稿。あれだけの人気を集めた連載の、なんともあっけない幕切れでした」(福元一義著『手塚先生、締め切り過ぎてます!』2009年、集英社刊より)
この福元さんの文章には、先生とスタッフが当時カンヅメになった場所として、ホテル錦友館のほかに講談社と一橋寮という名前も出てきているが、『ブラック・ジャック』は秋田書店の『週刊少年チャンピオン』に連載されていた作品なので、講談社ではないし一橋寮も小学館の施設なので、この出来事があったのは「ホテル錦友館」だったと考えて間違いないだろう。
手塚先生の代表作のひとつである『ブラック・ジャック』の連載最終回は、ここ「ホテル錦友館」で描かれたのである。
その歴史的出来事の現場だったと言っても過言ではないホテル錦友館は、当時の住所でいうと千代田区神田神保町1-57にあった。現在の地図と重ね合わせてみると、現在の神保町三井ビルディングの南西の一角となる。
ホテル錦友館がいつ閉館したのかは分からなかったが、1990年代の半ばごろから少しずつビル建設のための立ち退きが始まっていたので恐らくその時期だろう。
ということで、かつてホテル錦友館のあった場所を訪ねてみたが、そこにはビルの外壁があるだけで、当時の面影を想像することすらできない。
しか~~し! である。何と、あるマンガ家の先生がホテル錦友館の写真をお持ちだったのだ。その先生とは江口寿史先生である。江口先生が2020年7月にご自身のツイッターにホテル錦友館のありし日の写真をアップロードされていたのだ。
我われ虫さんぽ隊は、ちょうど今回の虫さんぽ+(プラス)の事前調査を進めていたところだったので、すぐに江口先生に連絡を取ったところ、写真の掲載をご快諾してくださった。ということで、幻のホテル錦友館の写真をここに掲載できることになりました。江口先生、本当にありがとうございます!!
ホテル錦友館の外観は分かった。それでは室内はどんな感じだったのか。じつはぼく(黒沢)も1982年ごろに、編集者として一度だけここにカンヅメになっているあるマンガ家さんのところへ打ち合わせに出向いたことがあった。そのマンガ家さんは新潮社の仕事でここにカンヅメになっていたので、恐らく新潮社もよく利用していたのだろう。
ぼくの記憶では、建物はその当時でもかなり古びていて廊下は薄暗く、リノリウム貼りの床が突き当りの非常口の灯りで鈍く波打って光っている、そんな昔の病院のような建物だったと思う。
室内は部屋によって違うと思うけど、その先生の泊まっていた部屋は2間続きの和室で床の間があり、奥の部屋には仮眠用の布団が敷きっぱなしになっていた。
仕事に使われていた部屋の真ん中には大きな和室用の机が置かれていて、先生はそこで仕事をされていた。机の上には蛍光灯の電気スタンドが置かれていたがこれもこのホテルの備品だろう。
そしてこのホテル錦友館であるが、じつはここはマンガ家仲間の間では怪奇現象の起こるホテルとしてひそかに知られていた。
カンヅメに利用されるホテルや旅館はほとんどが古い建物の場合が多いので、こうしたウワサはどのホテルでもけっこうありがちなんだけど、ホテル錦友館においては、特に多くの有名なマンガ家さんが何人もここで怪奇現象を体験していると語っている。空室のはずの隣室から物音が聞こえたとか、部屋へ入るなり急に首筋が痛くなったりとか。
しかし手塚先生は、むしろそうした怪談話を創作して、ほかのマンガ家を怖がらせたりしていた方なので、ここに宿泊して仕事をされたときにも、恐らくそうした現象には遭遇していないでしょう。
さて、最後にもう1か所、ホテル錦友館からほど近い場所にあった手塚先生ゆかりの旅館跡地を訪ねてみよう。その旅館は千代田区の神田錦町にあった「東岳館」である。
ただしこの旅館は手塚先生がカンヅメになるためにキープされていたにも関わらず、先生がここへ来ることはなかった? いったいどういうことなのか......。
その顛末が書かれているのは、マンガ家の鈴木光明氏のエッセイ『マンガの神様! 追想の手塚治虫先生』である。
時代は福元さんのエッセイにあったホテル錦友館の時代より20年以上前の1955年のことだ。鈴木光明さんは当時まだデビューして間もない新人のころで仕事もあまりなかったという。その鈴木さんに片山さんという集英社の編集者から手塚先生のアシスタントを依頼された。
「手伝いを求められたのは、「おもしろブック」三月号別冊付録に予定されている「丹下左膳 乾雲坤竜の巻」でした。先生は同誌の十二月号にすでに「まんが 丹下左膳」を発表しており、これはその続編に当たる作品でした。もちろん、原作は現在に至るまで何度となく映画化・TV化されている林不忘の小説です(中略)。
それから間もなく、私は片山さんにカンヅメにされました。
もちろん、私にとっては初めて経験するカンヅメでした。
場所は集英社に近い東岳館という旅館だったと思います。別に造りが立派なわけでも、とくに大きいわけでもなく、十部屋もなかったようでした。今の人たちには想像しにくいでしょうが、当時は都心にこうした感じの出版社御用達のカンヅメ旅館がいくつもあったのです。旅館の人が深夜の人の出入りなどにも手慣れていたため、編集者たちも重宝がっていました」(鈴木光明著『マンガの神様! 追想の手塚治虫先生』1995年、白泉社刊より)
こうして鈴木光明さんはカンヅメ旅館「東岳館」に先乗りして手塚先生の到着を待った。ところが待てど暮らせど前の仕事が終わらない手塚先生はやって来ない。そして一週間後、ついにタイムリミットが来てしまい、手塚先生から電話が入った。そして手塚先生は電話口でこう言ったという。
「ネームから全部、やっていただけませんか」(鈴木氏の著書より)
何と読切作品を1本丸ごと新人の鈴木さんが代筆することになったのだ。そこで片山さんが応援のマンガ家をもうひとり呼んでくれた。それがデビューして間もない当時17歳の永島慎二だった。
こうして東岳館で初対面の新人マンガ家2人が手塚先生の代筆を行ったのだ。
以下、再び鈴木さんの著書から引用しよう。
「永島さんの心強い手助けもあって、「丹下左膳 乾雲坤竜の巻」は、どうにか「おもしろブック」三十年三月号に間に合わせることができました(中略)。
そんな事情からでしょう、この「丹下左膳 乾雲坤竜の巻」は、たぶん、今に至るまで一度も単行本に収録されたことはないと思います。
にもかかわらず、手塚先生は、私に丁寧に礼を述べられ、謝礼金の入った封筒を自ら手渡して下さったのです。あとで封を切ってみたら、その額にはびっくりしました。未だかつて私が手にしたことがないような大金です。恐らく、この時の原稿料の全額だったのではないでしょうか」(前出・鈴木氏の著書より)
旅館「東岳館」の住所は千代田区神田錦町3-3。ホテル錦友館から直線距離で東へおよそ300メートルほどのところで、こちらも狭い路地の奥である。なかなかわかりにくい場所だけど神田警察署のすぐ裏手の路地なので、現地を訪れる際には神田警察署が目印となるだろう。
その現地に立ってみると、ここにもすでに別の建物が建っていて、かつてここに旅館があった面影はまったくない。
古書店で昭和5年の消印のある東岳館の絵ハガキを見つけたので、これを見て当時の雰囲気を偲んでいただければ幸いです。戦後もこの絵ハガキと同じ建物だったかどうかは分からないが、鈴木氏のエッセイでは1955年時点で新しい建物だったようには書かれていないので、もしかしたらそのころも戦前の建物がそのまま残っていたのかも知れない。
ちなみにこの東岳館は戦前には下宿屋も経営していて、作家の江戸川乱歩がデビュー前の大正11年6月にほんの一時期だけ下宿していたことがあったそうである。そのころには間違いなくこの絵ハガキの建物だったことだろう。
ということで猛暑の中をオロオロと歩いた今回の虫さんぽ+(プラス)も、すべての目的地を巡り終えた。最後のキーワード「詰」は"館詰め"の「詰」だったのだ!
ぼくは神田警察署前の通りを西へ戻り白山通りへ出た。小学館と集英社を横目で眺めながら北へ歩くとすぐに地下鉄神保町駅の入り口が見えてくる。今回はここで解散としよう。
さて、次はどんな招待状がぼくの元に届くのか。次回のさんぽにもぜひご一緒してください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
つのがい
静岡県生まれ。漫画を描くこと、読むこととは無縁の生活を送ってきたが、2015年転職を境にペンを握る。
絵の練習としてSNSに載せていた「ブラック・ジャック」のパロディ漫画がきっかけで、2016年手塚プロダクション公式の作画ブレーンとなった。
web:https://www.tsunogai.net/
twitter:http://twitter.com/sunxoxome/
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