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関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第2回  富士見台時代から大きく変わった高田馬場時代へ

2021/09/13

関係者インタビュー
私と手塚治虫

第2回 富士見台時代から大きく変わった高田馬場時代へ

文/山崎 潤子

手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。手塚治虫のアシスタントを続けられてきた伴俊男さん。その生涯を描いた伝記的漫画『手塚治虫物語』を執筆されています。当時のアシスタント生活の様子、手塚治虫とその作品への思いなどをお聞きしました。

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PROFILE

伴俊男(ばん・としお)

漫画家。1953年、京都生まれ。子ども時代からの漫画好きが高じてアシスタントを志す。1974年より手塚プロダクションにアシスタントとして参加。フリーとしての活動を経て1978年に再び手塚プロダクションに加わり、漫画部のサブチーフとして手塚治虫の創作活動を最後までサポートした。


■贅沢すぎる!?アシスタント生活

──高田馬場時代は、富士見台時代と比べてずいぶん楽になったんですね。

僕らは常駐だけど、自分の作品も描きながら、ゆるいリズムでやらせてもらえて助かりました。手塚先生もよく納得してくださったと思います。普通ならアシスタントがそんな時間の贅沢をするなんて、とんでもない世界ですから。

──入れ代わり立ち代わりするより、経験のあるレギュラーメンバーがサポートできる体制をつくったわけですね。

そういう面もあるかもしれません。ただ、多少の好き嫌いはあるでしょうが、手塚先生自身は人がどんどん入れ替わるのを面白がっていたところもあるかもしれませんね。本人から聞いたわけではないので、わかりませんが。

──高田馬場に移ってから、漫画部の雰囲気は変わりましたか?

富士見台の狭い雑居ビルの時代にくらべると、雰囲気はだいぶマシになりました(笑)。大きく変わったのが、女性アシスタントが入るようになったことです。それまで女性はひとりもいなかったですから。というより、とても女性が入ってこられるような世界じゃなかったんです。

■一番の違いは「女性アシスタント」

──女性が入れないほどの雰囲気だったわけですね。

仕事は過酷だし、むさ苦しいし、締め切り前は殺伐としていましたからね。とても女性が居られるような雰囲気じゃなかったんです。逆に女性がいたら僕らも困るくらい(笑)。高田馬場時代にそういう余裕ができたのは、おそらく講談社から『手塚治虫漫画全集』が発刊されて、金銭的な余裕が出てきたからかもしれませんね(笑)。

それに、当時は萩尾望都さんや竹宮惠子さんといった女性漫画家が活躍するようになって、漫画界も変わりつつあったんです。

──少女漫画が盛り上がって、女性作家も増えて、女性のアシスタント志望も増えていたんですね。

それまでは漫画は男が描くものみたいな感じがありましたが、女性だって描けるんだという時代に入っていった感じです。僕なんて内気な若者だったから、女性アシスタントが入ってくるなんてドギマギしましたよ(笑)。

多少余裕ができたことで、先生はまたアニメを作り出すんですけどね(笑)。とにかく高田馬場時代は、いろいろな意味で余裕ができた時期といえるでしょうね。

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『ユニコ』(1976年〜1979年)

伝説の一角獣、ユニコーンの子であるユニコが、人々に幸せをもたらしながら旅をするファンタジー作品。手塚治虫が描いた最後の少女漫画となる。女性が自らペンをとるようになったことで、手塚治虫も少女漫画の道を才能ある彼女たちに譲った......、のかもしれない。

■上昇気流に乗っていた高田馬場時代

──高田馬場時代は、虫プロダクションの倒産などを乗り越えて復活の時期ですよね。

手塚先生ご自身の気持ちは、手塚先生にしかわからないでしょうけれどね。でも、たしかに高田馬場に移ってからは完全に持ち直して復活したという雰囲気はありました。上へ上へというような、上昇気流のような雰囲気を感じましたね。

当時の漫画界では「手塚治虫なんてもうダメだ。絵も古いしもう終わっている」と言われていました。劇画全盛期で、読者も作家も劇画に夢中になっていた時代です。僕自身も漫画好きな若者ですから、若い世代が描く新しい劇画をおもしろいと思って読んでいました。

そんなときに、手塚先生は『ブラック・ジャック』で不死鳥のように蘇って、また人気が盛り上がっていったわけです。もともと手塚先生の漫画が持つ、ストーリーの深みや人間を描くという部分が読者の心をつかんだわけです。そういう意味では、手塚先生の漫画は劇画の上を行っていたんでしょうね。

──手塚先生が『ブラック・ジャック』を連載していたのは40代後半。その歳で大復活を遂げるのはすごい話ですよね。

僕が知っている手塚先生は、いくつになっても、とにかく毎日毎日描き続けていました。しかも、ろくに寝ないで仕事しているのに、いつもうれしそうに仕事をされるんです。どんなときも、生き生きと仕事をされていました。

──漫画が本当に好きでなければ、そこまでできませんよね。

でも、金銭的な余裕ができると、やっぱりアニメがやりたくなるんですよ。もうやらないと言ったアニメですが、高田馬場時代にはアニメのスタッフを募集して、アニメ部もできて......。先生の中には、「あんなものがつくりたい、こんなものがつくりたい」っていう夢がたくさんあったと思います。

■『手塚治虫物語』創作秘話

──伴さんが描かれた『手塚治虫物語』(朝日新聞社)は、どういう経緯があったんですか?

『手塚治虫物語』は、手塚先生が亡くなってから描いたものです。当時、手塚先生が亡くなったことはひとつの事件でした。関係者だけでなく、多くの人にとってショックな出来事でした。そこで手塚治虫の生涯を描いた伝記漫画をつくろうという企画があったわけです。

誰が描くかというときに、いわゆるプロの漫画家よりも、一緒に働いていた人がいいだろうということで、僕が描くことになりました。漫画がうまい人は山のようにいるけど、アシスタントに描かせるのがおもしろいと思われたのかもしれません。

──もともとは連載だったんですか?

『アサヒグラフ』の週刊連載でした。アサヒグラフは大判の雑誌だったけど、文庫になったものは小さくてちょっと読みにくいですよね(笑)。

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『手塚治虫物語』(全2巻・朝日新聞社)

──先生が亡くなった年から連載を開始して、取材と執筆を同時にこなすのは、大変だったのでは?

子供時代から1970年代あたりまでの話は、『ぼくは漫画家』という手塚先生の自伝をベースにしています。それにいろいろな人取材して、肉付けしていきました。若かったからできたんでしょうね。単行本化したときに、あとでわかった事実や足りない部分を描き足して、さらに詳しいものにしています。

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『ぼくは漫画家』1969年(毎日新聞社)

──『手塚治虫物語』は手塚治虫の生涯を知るという意味でも、貴重なものだと思います。登場する関係者も、今はすでに亡くなっている方が多いので。

これを描いたのはもう30年も前ですから、そういう面もあるかもしれませんね。

僕はアシスタント歴が長いから、背景とかはうまいんです。でも、読者はそんなところは見ていない。やっぱり、キャラクターの顔が魅力的かどうかです。僕は顔を描くのが下手だから、自分では下手な絵だって思っているんです。手塚先生をはじめ、大ヒット作を描いた漫画家さんの絵は、キャラクターの顔に魅力があるんですよ。だから、僕なんてとてもとても......。

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『どついたれ』(1979年〜1980年)

戦中戦後の大阪を舞台に、荒廃した世の中でたくましく、明るく生き抜こうとする者たちの姿が描かれている。登場人物の一人、マンガ家の卵である高塚修は手塚治虫の分身のような人物で、隠れた自伝的作品として知られる。

──手塚治虫の生涯を網羅して漫画するのは、大変なことだったと思います。

当時は一生懸命やるしかありませんでした。手塚プロダクション時代に在籍しながら描いたから、チーフアシスタントの福元さんに僕の漫画を手伝っていただくということになったんですよね。福元さんも、もう亡くなってしまって......。

──『手塚治虫物語』を翻訳したフレデリック・L・ショットさんも手塚治虫の作家研究にも、価値があるとおっしゃっていたそうです。

それはうれしいですね。かなり長いものになってしまいましたが。

──手塚先生のアシスタントだったからこそ、逆に描きにくかったところはありますか?

仕事について描きにくいということはありませんでしたが、奥様をはじめ、ご家族が登場するシーンは、やっぱり描きにくかったですよね。手塚先生のプライベートでもありますから。でも、手塚先生の生涯を描くとなると、プライベートを一切描かないわけにもいかないですからね。

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次回は、長年アシスタントとして見てきた手塚治虫像について、お聞きします。


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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