無駄な遠まわり、道草を許さない社会は、どう考えても先に豊かさは見えません。
合理主義や生産至上主義は、結局はその社会を疲弊させてしまうでしょう。
なぜなら、みずみずしい感性や独創性をもった子どもたちが、育っていくはずがないからです。
(『ガラスの地球を救え』より)
親は自分の子にこうあって欲しいと思い、子は親の期待を裏切ってでも自分の道を進んで行く。
それを嘆く人が多いようですが、むしろ、子どもが自分で自分が歩いて行く道を見つけたことを喜ぶべきでしょう。
例えその道が親が用意していた道ほど楽で安全なものではないとしても、見守ってあげて、決して無理に別の道へと 引きずって行かない。
親が子へと教えられるのは、幸せというゴールへたどり着くための道は無数にあり、
どの道を選ぶとしても、それは自分の責任で進んで行く道なのだと伝えることだけかもしれません。
政治的な規制もなく、自主的に、生命の尊厳と生きるということの価値を情報によって子どもたちに与える態度をとることが、ぼくたち大人の高度情報化社会に対する何よりの心構えではないかと思います。
(『ガラスの地球を救え』より)
父の死と直面したレオ。
父の死というのはレオにとってつらすぎるほどのショックですが、同時にそれは父から子へとひとつのバトンが受け渡された 瞬間でもあります。
それは「責任」という名のバトン。
命は常に遺伝子としていうメカニズムを通して自分の存在を後の世代に受け渡します。
だから遺伝子が受け継がれている限り、命は決して死なないのです。
父の死に直面する、ということは「遺伝子の中に眠る《父の命》を自分の中に甦らせる」ということでもあります。
命を受け継ぎ、さらに次の世代へと引き渡して行く、その「責任という名のバトン」。
レオと同じようにあなたも同じバトンを受け継いで、今日ここに生きているのです。
ほんとうに若い力をフル回転させて、充実した一生を生きるとはどういうことか、人生のほんとうの喜びとは何かについて、深く考える心を子どもたちに育みたいし、若者に考えてもらいたいのです。
(『ガラスの地球を救え』より)
いつからでしょう? 親が子を、子が親を殺す、毎月のようにそんなニュースが 流され、「親になってはいけないタイプの人間が親になっている」と感じることもあります。
けれど親になってはいけない人間なんて、本当はひとりもいないはずなんですね。
親になるための免許証があるとすれば、それは誰もが産まれた時から持っているものです。
それは愛。愛なくして産まれてくる命、というのはありません。
命そのものが愛だからです。
けれど親たちは自分に都合のいい「良い子」を育てることに夢中になりすぎました。うちの子が「良い子」にならないのは自分以外の何かのせいだと責任転嫁する前に、自分は「何を良し」とし、「何を守る」のか、それを子供たちに伝えたほうがよさそうです。
この絵の中の母親は言葉ではなく行動で「命をかけてでも守りたいものがある。それはあなただ」と宣言しています。