幼いころから生命の大切さを教え、生物をいたわる心を持つための教育が徹底すれば、子どもをめぐる現在のような悲惨な事態は解消していくだろうと信じます。
(『ガラスの地球を救え』より)
子どもたちはどんなものとでも友だちになれます。
縫いぐるみと話し、花のささやきに耳を傾け、大空を行く雲とだって会話が出来ます。
なのに、いつしか成長するに従って、幼い頃に感じていた周囲のものたちへの友情を失ってしまう。
もし幼い頃のように人間以外のものにも友情を抱き続けることが出来たら、そしてそのものたちを自らを盾にしてでも守ることが出来たら、この世界はもっと素敵な世界になるかもしれません。
ロボットを守るために捨て身で大人たちの前に立ちはだかる子どもたち。
この場面の中に、子どもたちの中にある本物の宝物が見えてきます。
想像力は、大きな夢につながるものですが、ごく日常の現実、隣に住む人の悩みにだって、届かせることはできる。
それは他人の悩みをせんさくするという意味ではありません。
自分以外の人の痛みを感じとるには、想像力が必要なのです。
(『ガラスの地球を救え』より)
恐竜と人間の友情なんてマンガだけのことですか?
悠久の時代を超えて呼応し合う魂というのがあります。
そういうことを「ソウル・メイト」と呼んだりします。
魂と魂が見えない絆で結ばれている、ということです。
そういうソウル・メイトを探しましょう、という本も多く見かけますが、じつは誰かと出会い、お互いに好感を持って友達になる、ということだけでもすでに、なにがしか「神秘的」な魔法が宿っているような気もしますね。
ソウル・メイトは窓の向こうを飛び過ぎて行く一羽の鳥かもしれないし、遠くで鳴いている一匹の犬かもしれません。
魂と魂はいつも種の垣根を超えて呼びかけ合っています。
直感を信じて、魂の声に耳を傾けてみれば、恐竜とだって、虫の一匹とだって友情を築くことが出来るかもしれません。
最近、とくに異分子を排除しようとする傾向が、子どもたちのいじめの中に見られると言います。
自分たちとちょっと違ってみえる子をいじめの標的にするとか。
それはそのまま大人の社会の鏡のようなものだと思います。
(『ガラスの地球を救え』より)
ネズミと猫は昔から対立するものとして描かれてきました。
猫はネズミをいじめるものだし、ネズミは猫から逃げ回っているものだ。
そんなふうに思い込まされてしまうことを「偏向教育」といいます。
誰かを「敵だ」「悪者だ」と決め付けてしまう前に、相手のことをよく見つめてみてはどうでしょう。
敵を倒す唯一の方法は敵と友達になることです。
考え方の違いを認め合い、許し合えたら、すべての争いは消え去ってしまう。そう信じたいですね。