2019/05/17
連載を複数掛け持ち、常に締め切りに追われていた手塚治虫先生。
そんな多忙を極める先生は一人で戦っていたのでしょうか。
...いや!そこにはアシスタントさんを初めとした仲間たち、そして何より手塚先生の奥様、悦子夫人の支えも大きかったはず!
30年という歳月を手塚先生と共に過ごした悦子夫人。
漫画の神様の妻。きっと想像もつかないような苦労も多かったと思います。しかし、そういった奥様の支えが手塚先生の新たな作品を生む力になっていたのではないでしょうか。
さて、このコラム『手塚を知りたい放送作家』もスタートから約半年。
挿絵を描いてくれている妻の支えがあってこその連載だと思います。
手塚のこととはちょっとズレてしまいますが、今回はそんな妻のことを描いてみたいと思います。
僕と妻の出会いは友人の結婚式。
25歳の時でした。
受付で明らかに挙動不審になっている女性が彼女でした。
面白い人だな〜と思っていたら二次会で偶然向かい合わせの席に。
話も弾み、お互いに好印象。その後、何度か二人で遊びに行って交際がスタートしました。
そして付き合って4年後、僕が突然血迷ったことを言い出します。
当時29歳。夢を追うには遅すぎるスタートです。
東京になんのあてがあるわけでもない。食べていける保証もない。
正直、僕はフラれること前提で話していました。
それに加えて、彼女は縁日の屋台で一人では買い物も出来ないほど、か弱い女性。
東京で暮らすなんてありえないだろうな...と、思っていたら...
「まぁ、いってみよっか」と、まさかの返答。
そして僕が上京して半年後、岡山での仕事を辞め、彼女も上京。
東京での暮らしがスタートしました。
それから10年...。
彼女の支えもあって、なんとか作家業一本で食べていけるようになりました。
2人でスタートした暮らしも今では4人に。
屋台で買い物が出来なかった彼女も今では...
考えられないほど、たくましくなりました。
そして半年前、この手塚コラムの挿絵を依頼。
思い返せば10年前、東京に行くことを告げた時よりも驚いていた気がします。
妻「はぁ!? 手塚? コラム? 挿絵? はぁぁ?」
このコラムは、まず僕が文章を書き、それから嫁が絵を描くという流れ。
5歳と2歳の子どもがいる状態での作画はめちゃくちゃ大変。
特に締め切りの前は鬼気迫るものを感じます。
殺気というんでしょうか。出てるんです。達人の出すような殺気が。
これは主に原稿を妻に提出するのが遅い僕のせいであり、殺気を出されても仕方がないのです。
最初は慣れない作業に四苦八苦している妻でしたが、最近では...
なんだか分からないけど前向きに描いてくれている感じがします。
新しい扉を開いた感というんでしょうか。
本当に口に出して「アタシの伸び代やべぇー!」って言ってました。
その時の目も相当ヤバかったです。
一心不乱に描く嫁。すごいなーと思う反面、ちょっとした怖さもあります。
嫁でこれなので、手塚先生は一体どんな感じだったのでしょうか。
そのうち「手塚先生を近くに感じる!」とか言い出しそうな勢いです。
作業のメインとなるのは子供たちが寝静まった後。
僕もこの時間に作業することが多いので、二人で並んで机に向かいます。
仕事と子育てで普段二人っきりの時間は皆無。
並んで作業するこの時間がなんだかんだ結構楽しかったりします。
よーし、殺気が出始める前に次のネタを探しましょう。
1979年生まれ、岡山県出身。放送作家。
『サラリーマンNEO』、『となりのシムラ』、『落語 THE MOVIE』などの人気番組の他、テレビアニメ『貝社員』の脚本も担当。『特捜警察ジャンポリス』、『サンドウィッチマンの週刊ラジオジャンプ』など、漫画を題材にした番組にも携わっている。
バックナンバー