「ブッダ」
「ユニコ」
1973年、虫プロ商事と虫プロダクションが倒産した。
すでに手塚は社長を退陣して経営から離れていたが、結果的に両者の負債を背負い込むことになった。
負債を抱え、アニメ制作の夢を断たれた手塚は、再びマンガ制作に専念することになる。
72年には「COM」の休刊により中断した「火の鳥」のテーマをお釈迦さまの伝記の形を借りて描いた「ブッダ」を「希望の友」(潮出版社)に連載開始。
73年には、マンガ家生活30周年記念作品「ブラック・ジャック」を「少年チャンピオン」(秋田書店)に連載。
74年には異色作「三つ目がとおる」を「少年マガジン」(講談社)に、76年には「リリカ」(サンリオ)にメルヘンマンガ「ユニコ」を連載。
それぞれがヒット作となり、新たな手塚ブームが起こった。
「バンダーブック」(1978)
「青いブリンク」(1989)
手塚プロのアニメとしては、1971年の「ふしぎなメルモ」とヤマハエレクトーン教室のPRアニメ「氷の国のミースケ」(70年)、「南へ行ったミースケ」(71年)があったが、本格的な制作が始まるのは、78年のこと。
手塚がアニメ制作を再開した第一の理由は、「ブラック・ジャック」や「三つ目がとおる」のヒット作で金銭的な余裕ができたことだ。
また、竜の子プロの吉田竜夫の突然の死のショックや、「宇宙戦艦ヤマト」に始まるアニメブームの中で手塚を過去の作家とする風潮があったことへの反発もあった。
手塚は、実験アニメ「ある森の伝説」(のち「森の伝説」として一部が完成)の制作を決め、旧虫プロのアニメーターたちを集めた。
78年には、市川崑監督の映画「火の鳥」の合成アニメ部分の制作が決定。
さらに、同年8月、日本テレビ「24時間テレビ・愛は地球を救う」の中で2時間アニメ「100万年地球の旅・バンダーブック」が放映され、手塚アニメ健在を示し、以降、精力的に作品を発表するようになる。
マスコットキャラを使用した商品の数々
手塚の仕事はマンガやアニメにとどまらない。
「漫画家の絵本の会」を舞台にした絵本の制作や、本の装丁、ポスターやレコードのイラスト、企業やイベントのマスコットキャラデザインなど、思わぬところで手塚作品に出会うことができる。
また画業以外でも、講演やエッセイ、対談、翻訳などをこなし、1970年の日本万国博覧会では、フジパンロボット館の、73年の沖縄海洋博では政府館(アクアポリス)のプロデューサーをそれぞれ務めた。
手塚は常に「マンガ家は頭の切り替えが必要である」と語ったが、その意識がさまざまな仕事に向かわせたのだろう。
ザグレブ国際アニメーション 映画祭
グランプリ盾
バリャドリド国際アニメーション 映画祭
金穂賞盾
バルナ国際アニメーション 映画祭
カテゴリー部門 最優秀賞盾
「聖書物語」セル画
手塚は1963年NBCテレビとの契約のためにアメリカを訪問して以来、何度も海外に出かけている。
80年には国際交流基金のマンガ大使として、国連本部で現代日本のマンガ文化についての講演も行った。
手塚は、マンガやアニメはインターナショナルなコミュニケーション手段になると考え、世界に向けて自分のメッセージを伝えようとしたのである。