手塚治虫記念館手塚治虫記念館

常設展では手塚治虫のゆかりの品や、作品資料が「火の鳥・未来編」に登場する生命維持装置をモチーフにした展示カプセル40本の中に、展示されています。
また展示は大きく2部に別れ、前半「宝塚と手塚治虫」は宝塚で過ごした少年時代からマンガ家デビューまで、後半「作家、手塚治虫」では、その後の手塚治虫の活躍ぶりを様々な展示物で紹介します。
さあ、手塚治虫の足跡をたどってみましょう。

常設展1 「宝塚と手塚治虫」 1

誕生


お宮参りの時


家族と

手塚治虫は1928年(昭和3年)11月3日、手塚粲・文子夫妻の長男として大阪府豊中市に生まれた。その日が明治天皇の誕生日を祝う明治節であったことから「治」と命名される。父・粲は住友金属に勤めるサラリーマン、母・文子は軍人の娘。父方の祖父・太郎は法律家、曾祖父・良庵はのちに「陽だまりの樹」で手塚が描いたように医者で、母方の先祖には忍者の服部半蔵がいる。粲の趣味はカメラや映画。文子は宝塚歌劇の大ファンでお話が上手。厳格な中にも、趣味的なにおいが強い家庭であった。兄弟は、弟の浩と妹の美奈子。美奈子はとくに長兄の治になついていて、子どものときはいつも兄について回っていたという。

宝塚へ


宝塚大劇場(昭和初期)


宝塚ホテル(旧館)

手塚が5歳のとき、一家は現在の宝塚市御殿山の山林のふもとに手塚太郎が別荘として建てた家に引っ越した。今は住宅地となっている御殿山は当時は雑木林にきつねやたぬきがすみ、昆虫の宝庫だった。また、宝塚歌劇やルナパーク、宝塚ホテル、宝塚ゴルフ倶楽部、ダンスホールなどがあるモダンな街でもあり、手塚マンガのモダニズムはここではぐくまれた。

萌芽(小学校時代1)


「火星の人間」


「フクちゃんと魚釣」

手塚は幼いときから絵の好きな子どもだった。きげんの悪いときでも、落書き帳を与えるととたんにニッコリとなって絵を描いていた。
両親は子どもたちの枕元にいつも落書き帳を置いていたという。
1935年(昭和10年)手塚は大阪府立池田師範付属小学校(現在の大阪教育大学付属池田小学校)に入学する。
小学校に入学すると手塚は紙芝居やマンガを描いてクラスメートに読ませるようになる。
小学校2、3年に描いた紙芝居には早くも「ヒョウタンツギ」が登場している。
また、小学校3年生のときには「ピンピン生チャン」というページもののマンガも描いており、これは職員室でも評判になった。

萌芽(小学校時代2)


大阪市立美術館賞状


六年間をかへりみて・・・

手塚の通っていた池田師範付属小学校はたいへんユニークな教育で知られていた。
クラスは1学年に2クラスで、6年間クラス替えをしない。
「男女7歳にして席を同じうせず」と言われた時代だったが、ここでは6年生まで共学だ。
さまざまな面で生徒の自主性が尊重され、ひとりひとりの個性を伸ばす教育が行われた。中でも重視されたのが作文教育だった。
作文のときにも手塚は、実際に起こったことだけでなく、自分の感想や、ときには空想もまじえた文章を書いた。
本筋から脱線して先生に叱られたこともあったが、このとき学んだことが作家としての資質を目覚めさせたのだろう。
また、絵の才能も先生たちを驚かせた。
5年生のころには図画などに甲虫の名からとった治虫(オサムシ)のペンネームも使い始めた。

中学校時代の自画像


中学校時代の自画像


「幽霊男(前編)」

1941年(昭和16年)4月、手塚は大阪府立北野中学校(現在の北野高校)に入学。
同年12月8日には太平洋戦争が勃発する。
中学生になった治は美術班に属して絵を学んだり、クラスの仲間と昆虫採集や科学雑誌の編集をしたりしながら多感な時代を過ごした。
マンガも試行錯誤の末に、墨とペンを使った本格的なものを描くようになり、中学時代の習作のひとつ「ロスト・ワールド」には「これは漫画に非ず小説にも非ず」という、のちのストーリー・マンガの誕生を予感させるようなまえがきも書かれている。
また、クラスメートのおじいさんをモデルにした「ヒゲオヤジ」が登場して、手塚のマンガの重要なキャラクターになったのもこの時期だった。
戦争によって時代はマンガどころではなくなっていくが、理解のある先生のはげましもあって、手塚はマンガ家への才能を花開かせていった。

THE OSAMU TEZUKA MANGA MUSEUM|手塚治虫記念館