「COM」創刊号 表紙 (1967)
「COM」創刊号 創刊のことば (1967)
「鉄腕アトム」のテレビ放映中、虫プロはファンのための雑誌として「鉄腕アトムクラブ」を月刊で発行していた。
これは郵送のみのミニコミだったが、手塚自身によるアトムの新作や永島慎二らのマンガなどを掲載した本格的な雑誌だった。
「鉄腕アトム」の放映の終了を機に「鉄腕アトムクラブ」は発展解消され、1967年1月、新しい商業誌「COM」に生まれ変わった。
手塚は「COM」をかつての「漫画少年」のような新人の登竜門にしたいと考えた。
連載陣は手塚の「火の鳥」や、石ノ森章太郎の「ジュン」、永島慎二の「青春残酷物語」など、第一線の作家たちが大人の鑑賞にも耐える斬新な作品を発表した。
ゲストの作家たちも少年誌では描けないような意欲的作品にチャレンジ。
さらに、新人発掘のための「ぐら・こん漫画予備校」を設けて広く作品を募集した。
漫画予備校への投稿者からは、青柳裕介、あだち充、大友克洋、岡田史子、竹宮惠子、能條純一、長谷川法世、宮谷一彦、諸星大二郎ら多くの才能が巣立った。
また、「ぐら・こん」はマンガ家を志す若者やマンガファンに呼びかけて各地に支部をもつ全国的な組織まで発展して、今日のマンガブームの地盤をつくる役割も果たした。
「火の鳥」
手塚が「火の鳥」に取り組んだのは、1954年に「漫画少年」に連載した「黎明編」が最初。
同誌の休刊で中断後、「少女クラブ」(講談社)に新たな構想で連載。
これも中断し、67年の「COM」創刊とともに再度「黎明編」からスタートした。
「COM」版は永遠の生命を象徴する火の鳥を狂言回しに「生と死・生命の神秘」を共通のテーマとして持つ独立したエピソードが、古代日本と人類の最後という歴史の両端から交互に綴られる構成で、21世紀のエピソードでは「鉄腕アトム」も登場して、最後は現代のエピソードで完結する予定だった。
それぞれのエピソードには関連があり、人類の最後を描いた「未来編」では、途方もない時の流れの末に再び登場した新しい人類の歴史が「黎明編」へとつながることも暗示されていて、完結すれば手塚流輪廻の世界が完成するはずだった。
「COM」の休刊で中断後、「マンガ少年」(朝日ソノラマ)に「野性時代」(角川書店)と、その後も発表の舞台を変えて描き継がれ、死の直前まで日中戦争当時の中国大陸を舞台にした「大地編」の構想も練られた、文字どおりのライフワークである。
「ビッグコミック」創刊号(1968)
「きりひと讃歌」スチール(1970)
1968年1月手塚はマンガ制作のために株式会社手塚プロダクションを設立した。
ちょうどこの時期、青年コミック誌が登場する。
67年には「漫画アクション」(双葉社)、「ヤングコミック」(少年画報社)、68年には「ビッグコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)があいついで創刊。
手塚も「ビッグコミック」に「地球を呑む」、「プレイコミック」に短編シリーズ「空気の底」の連載を開始、内容や画風の変換を迫られることになる。
「ビッグコミック」の連載第3弾「きりひと讃歌」で手塚は人物をギザギザの線で表現するなど、劇画的なものを手塚の絵柄の中に吸収した新しい画風を生みだした。
内容面でもハードな社会的テーマを扱った手塚コミックは高い評価を得るようになった。
1968年4月に描かれた作品群
1966年、手塚は「少年サンデー」(小学館)誌上に「バンパイヤ」の連載を開始した。
同誌には創刊以来「0マン」や「W3」などの少年マンガを発表してきたが、「バンパイヤ」はこれらと一線を画するものだった。
最大の特色は準主役のロックの自由奔放な悪役ぶりだ。
正義が悪に勝つという既成のパターンをうちやぶるように、悪の限りを尽くすロックは読者の心をつかんだ。
この成功をきっかけに手塚は、つぎつぎに新しいジャンルに挑戦する。
「アポロの歌」では性の問題を、「アラバスター」では人の心の奥にある憎悪を取り上げた。
「バンパイヤ」のあとを受けて「どろろ」が始まった68年4月には、SF、怪奇もの、大人マンガ、幼年マンガとさまざまなジャンルの13本もの新連載をスタートさせた。
「千夜一夜物語」プログラム(1969)
「クレオパトラ」プログラム(1970)
手塚はアニメは子供だけのものではなく、大人が楽しめるものもあるべきだという考えを持っていた。
アニメの持つ自由な表現力や美しさを大人にも伝えたいと考えたのだ。
創立10周年を迎えた日本へラルド映画の「10周年を記念して海外にも輸出できるような大人向きのアニメをつくりたい」という企画を受けた手塚は、「アラビアンナイト」に題材をとった大人のための劇場用アニメ「千夜一夜物語」の制作に着手した。
これまでに、テレビアニメを再編集した「鉄腕アトム・宇宙の勇者」と「ジャングル大帝」が劇場公開されていたが、オリジナルの劇場用長編アニメとしては、手塚にとって最初の作品であった。
この作品はアニメーションドラマを略して「アニメラマ」と名づけられ、アニメと実写の合成やミニチュアセットとアニメの合成など当時のアニメ技術と映画技術の可能性が追求された。
制作期間は約1年5ヶ月。
動員されたスタッフは述べ6万人。
描かれたセルは7万枚にも達する。
各界の著名人が声のゲスト出演をしたのも話題になった。
公開は1969年で、制作費1億3000万円に対して配給収入3億2000万円の大ヒット作となった。
翌年には第2弾「クレオパトラ」が封切られ、こでは実写のフィルムとアニメを合成するエリアル合成の技術が早くも実験されている。