手塚治虫記念館手塚治虫記念館

常設展1 「宝塚と手塚治虫」 2

手塚治虫と昆虫


「動物の世界」第1号


「原色昆蟲図譜」第2集

手塚が昆虫に興味を持つようになったのは小学校5年生のとき。
クラスメートから見せられた「原色千種昆蟲図譜」(平山修次郎)という図鑑がきっかけだった。
その友人に誘われて箕面公園などに昆虫採集に出かけるようになった手塚は、卒業するころにはすっかり一人前の昆虫マニアになっていた。
中学生になると、手塚がクラスの仲間を昆虫採集に誘うようになった。
彼らは、宝塚の御殿山や箕面公園などに昆虫採集に出かけたり、「昆蟲の世界」という肉筆回覧の会誌を発行したりする。
また、美術班のほかに地歴班にも所属した手塚は、そこから分かれた博物班から「動物の世界」という研究誌も発行している。
さらに、宝塚新温泉の中にあった「昆虫館」にひんぱんに通って専門家からの知識を吸収して、昆虫学者を夢見た時期もあった。

手塚治虫と漫画


「のらくろ伍長」(1937) 母・文子のパラパラマンガ「おむすび小僧」が左に描かれている

手塚とマンガの出会いは早い。父・粲は結婚前は自分でもマンガを描くくらいのマニアだった。
結婚後は写真に興味を変えたが、部屋の書棚には北沢楽天など、当時のおとなマンガ家の全集がずらりと並んでいた。
幼い手塚は父の部屋でそれらのマンガに触れたのである。
また、粲は東京・浅草の中村書店が子ども向きに発行していた「ナカムラ・マンガ」や田河水泡の「のらくろ」、横山隆一の「フクチャン」などを子どもたちに買いあたえた。
小学校時代の手塚は文字どおりマンガに囲まれるようにして育ったのだ。
また、中学生になってからは、父親が戦争前に買った「アサヒグラフ」に載っていたアメリカのマンガ家ジョージ・マクマナスの作品を手本に、ビルや自動車などを描く練習をしたという。

手塚治虫とアニメ


「西遊記・鉄扇公主の巻(1942日本公開)」


「くもとちゅうりっぷ」

アニメも父・粲の影響だった。粲はパティ・ベビーというフランス製の9.5ミリ映写機を買って自宅で映画を楽しんでいた。
フィルムの中にはディズニーの「ミッキーの突撃列車」もあった。
また、大阪の中之島にあった大阪朝日会館という劇場へ家族で出かけてフライシャーの「ポパイ」やディズニーの「シリー・シンフォニー」などを観るのも恒例だった。
その後、空襲で焼け残った映画館で「桃太郎 海の神兵」に感動した手塚は、自分もアニメをつくりたいと考えるようになる。

手塚治虫と読書


手塚治虫の本棚から

手塚は少年時代から大の本好きだった。
小説でも科学の本でも、歴史の本でも、与えられる本は片っ端から読んでいた。
読むスピードも驚異的で、小学校のときには片道20分ほどの通学電車の中で先生から借りた小説を読み切ってしまったこともあったという。
大人になってからも分厚い専門書を1時間ほどで、ちゃんと理解しながら読んでまわりを驚かせた。
速読でつぎつぎと読んでいった本や雑誌で得た雑多の知識が、汲めどもつきず、自分自身で「バーゲンセールをするほどある」と言わせるくらいに豊富だったアイデアのもとになったのである。

手塚治虫と演劇


「罪と罰」記念写真(1947 一番左が手塚)

1945年(昭和20年)手塚は大阪大学付属医学専門部に入学。そこで学生演劇に出合う。
1946年(昭和21年)5月に開催された医学専門部の文化祭がきっかけになって、専門部の学生と大阪府立女子大の学生が集まって「學友座」という劇団が結成され、治もこれに参加したのだ。
第1回公演の「生命の冠」には老人の役で出演。
第2回公演の「白衣の人々」では、出演のほかに、会場ロビーにストーリーをマンガで描いた物も発表した。
47年の新劇団合同公演「罪と罰」を最後に、手塚は演劇をやめてしまうが、ストーリーマンガの誕生や手塚マンガ独自のキャラクターを違った役で登場させる「スターシステム」などに、この時の経験が活きている。