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講談社 手塚治虫漫画全集「奇子」2巻 表紙用イラスト 1981年

ストーリー

1945年、日本の敗戦とともに大きく移り変わっていく時代の中で、崩壊していく旧家の一族の姿を描いた社会派ドラマです。

東北の大地主・天外(てんげ)家の末娘・奇子(あやこ)は、家長・作右衛門(さくえもん)が、長男市朗(いちろう)の嫁・すえに生ませた不義の子でした。

一方、戦地から復員してきた次男の仁朗(じろう)は、GHQ(連合国軍総司令部)の命令で、郷里淀山の左翼政党支部長の謀殺に関わります。ところが犯行後、仁朗が血のついたシャツを洗っているところを、奇子とお涼に目撃され、仁朗はお涼を殺してしまいました。市朗は、身内から犯罪者を出して天外家の家名が汚れるのを恐れて、仁朗を逃がし、幼い奇子を、永久に土蔵の中に閉じ込めておくことを決めました。

やがて月日は流れ、奇子は、土蔵の中で美しい大人の娘に成長していました。そして道路建設のために土蔵が壊されることになり、奇子は20年ぶりに外の世界を見ることになったのです。しかし、純粋な少女の心のままに成長した奇子の目に映った外の世界は、醜く恐ろしい欲望の渦巻く世界でした。

解説

1972/01/25-1973/06/25 「ビッグコミック」(小学館) 連載

青森県の架空の村の大地主・天外家の衰亡と、戦直後の日本で起こった労働闘争とGHQの陰謀による事件を絡ませたプロットで、占領下の日本の戦時中とは違った閉塞感や、敗戦によって強制的に価値観を塗り替えられていく人々の苦悩を活写した作品です。

手塚治虫本人の言葉によれば、もっと長くなり、大河的な規模にする予定があったようです。描かれる予定だったテーマは「日本人のバイタリティ」ということですから、結末の後の奇子がどう歳をとり、したたかに生きていくのか? というような話になったのではないでしょうか。

手塚治虫が「日本人とは?」という問題に挑んだ別の作品に「グリンゴ」があります。異郷の地で奮闘する主人公のタフな姿には、「奇子」とはまた違いながらも、どこか共通する日本人像を読み取れます。

1945年、太平洋戦争敗戦後の日本は、それまでの価値観が崩れ、新たな時代への転換を迫られていました。連合軍による民主化政策の一環として、農村では農地改革が断行されました。一定限度以上の土地を持った大地主から、国が土地を強制買収し、小作農に売り渡すことになったのです。この政策によって、地方の豪族はその権勢を急速に弱めました。

この作品は、そんな激動の時代を、土蔵に幽閉された少女という奇想天外な視点から、鋭く浮き彫りにしています。

物語の中には、戦後の混乱期に起こった実際の下山事件を思わせる国鉄総裁謀殺事件なども登場し、日本が初めて体験した敗戦と復興の狭間で起こったさまざまなひずみがリアルに描かれています。下山事件というのは、1949年7月、初代国鉄総裁・下山定則が謎の鉄道事故死を遂げた事件で、当時、自殺説、他殺説が入り乱れ、GHQによる謀殺説もささやかれましたが、真相は今も明らかになっていません。

主な登場人物

天外奇子(あやこ)

天外奇子(あやこ)

天外作右衛門とすえの間に生まれた娘。戸籍上は作右衛門とゐばの間の子どもということになっている。淀山事件の証拠となりうる事実をお涼とともに目撃しているが、当時四歳だったために家族に証言を握りつぶされ、天外家の名誉を守るために土蔵に生きながらにして閉じ込められる。
>キャラクター/奇子

天外奇子(あやこ)

天外仁朗(じろう)

天外伺朗(しろう)

天外仁朗(じろう)

青森県淀山市中上方町の大地主・天外家の次男。戦時中はマニラでアメリカ軍の捕虜となっていたが、終戦で復員。GHQのスパイとなっていた。右眼を失っており、眼帯をしている。GHQによる民進党淀山支部長・江野正殺害事件(作中では淀山事件と呼ばれている)にかかわった関係で勘当され、警察にも指名手配された。大阪に逃げたのち東京で桜辰会の祐天寺富夫を名乗る。

天外伺朗(しろう)

天外家の三男。利発な少年で、仁朗が淀山事件の犯人なのではないかと疑う。奇子が土蔵に閉じ込められることになった時、一族でただ一人反対し、仁朗を告発しようとした。

天外市朗(いちろう)

天外すえ

天外市朗(いちろう)

天外家の長男。自分に家督を継がせるために嫁のすえをたびたび父・作右衛門に差し出すなど、独善的な男。父・作右衛門が卒中で倒れて寝たきりになってからは事実上当主となったが、作右衛門のように一族を束ねる力も知恵もない。

天外すえ

市朗の妻。作右衛門の見立てで十七で嫁に来た。市朗の家督争いに利用され、作右衛門の間に奇子を身ごもる。美しいが古風で従順すぎる女性。

天外志子(なおこ)

お涼

天外志子(なおこ)

天外家の長女。明るく利発な性格で、誰にでも好かれる気性。民進党淀山支部長・江野正とは恋人関係で、自身も民進党員だったために事実上勘当され、天外家を出ていく。

お涼

天外家の小作人・吾助の娘(実は作右衛門が吾助の妻に手を出してできた子だということが後に判明)。奇子と仲が良かったが、仁朗に殺される。

天外作右衛門

天外ゐば

天外作右衛門

天外家の当主。仁朗によれば「傲慢 尊大 放蕩 淫乱 不遜 懐疑主義 マキャベリスト なにひとつ侮蔑の形容のあたらないことばはないような人間」で親族に頭の上がる者はいない、というほどの強権を握っている。家族を私的な裁判で裁いたり、息子たちや小作人の妻に手を出していても誰も文句を言わない。卒中で倒れ、人事不省に陥ってもなお家を支配していた。

天外ゐば

作右衛門の妻。子どもたちには優しい母だが、夫に従順で、夫が何をしても黙っているような女性。

下田警部

下田波奈夫

下田警部

国鉄総裁が失踪後何者かに殺害された「霜川事件」の担当刑事だったが、霜川事件と淀山事件の共通点に目をつけ、淀山事件についても調べている刑事。

下田波奈夫

下田警部の一人息子。後に奇子と恋仲になる。

手塚治虫が語る「奇子」

小学館 ビッグコミック 連載時 扉絵 1973年

「奇子」は一年半にわたってビッグコミックに連載した作品で、じつは、この物語はもっと長編の予定だったのです。

それが、急に途中で終わったのは、やむを得ぬ事情によるもので、話がつまったとかいやになったわけではありません。したがって物語の大筋のほんのプロローグですが、これはこれなりにまとめてみて満足しています。

最初はドストエフスキイの「カラマゾフの兄弟」のような、一家系のさまざまな人間関係を戦後史の中でかきたかったのです。戦後史をまともに出したのではあまりにも羅列的になりますから、その狂言まわしに天外一族をおいたのでした。戦前的な色彩をもつ素封家に、容赦なく戦後思想が混入し、その混乱と葛藤の中に、日本人のバイタリティのようなものをえがき出したいと思いました。

「奇子」はいちおうこの三冊の本でまとまっていますが、物語はこのあと、彼女の不思議な人生を追って発展することになります。それは、ぜひ書きたい意欲があり、またタイトルをかえてあらためてどこかに発表したいと思います。
(後略)

(講談社刊 手塚治虫漫画全集『奇子』3巻 あとがきより抜粋)

小学館 ビッグコミック 連載時 扉絵 1973年

大都社「奇子」下巻 口絵 1974年

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