1997年に誕生した、国内最大級の野外ロック・フェスティバルである「フジロックフェスティバル」。実は、2015年から手塚キャラクターとコラボレーションしていたのをご存じですか?
夏フェスと手塚キャラのフュージョンを実現させたのは、本フェスのオフィシャルショップである岩盤/GAN-BANのマーチャンダイジングを担当する小川泰志さん。
お話をうかがうと、そこには小川さんから手塚治虫への熱いラブ・コールがあったのです!
―――まず、岩盤では小川さんは何をされている方なのかお聞きしたいと思います。
小川泰志さん :(以下、小川)
僕は岩盤でマーチャンダイズを一通り担当していて、担当している4つのフェスそれぞれのチケットの卸しやフェスグッズの企画、制作、生産をしています。
マーチャンダイズ……商品の企画・開発、販売方法やサービスの立案、価格設定などを戦略的に行なう活動のこと。
4つのフェス…………ARABAKI ROCK FEST.(仙台)、JOIN ALIVE(岩見沢)、RISING SUN ROCK FESTIVAL(石狩)、フジロックフェスティバル(苗場)
―――4つも! そのうち3つは夏フェスですから、この時期はかなりバタバタじゃないですか?
小川 :
そうですね。今はちょうど夏に向けたフェス期で、事務所もしっちゃかめっちゃかになっています(笑)。
うちで扱っているフェスが10月にある朝霧JAM(富士見)で一区切りとなり、残った10~12月はまた来年のフェスの準備をしなくてはいけないんですよ。1月からはARABAKI のチケット先行発売とフジロックの早割(先行でお得に買えるチケット)がはじまるので、結局フェスのために1年間ずーっと動きっぱなしなんです。
―――岩盤は、フジロックフェスティバルのオフィシャルショップではありますが、フェスを運営するのは株式会社SMASHであり、元は別の会社なんですよね。どういう繋がりがありオフィシャルショップとなったのでしょうか。
小川 :
今から22年前に、学生時代からバンド仲間だった今の社長である豊間根聡と2人で立ち上げた会社が、岩盤の前身となっています。もともとはインディーズレーベルの会社で、その頃は普通にお客さんとしてフジロックに行っていました。
レーベルを立ち上げたはいいものの仕事がなくとても食っていけないような会社だったのですが、当時にしては珍しく会社のホームページを作っていて、扱っているCDの情報や社長が見にいったライブの寸評を更新していました。そうしたら、ある日突然ホームページを見たとフジロックの生みの親である株式会社SMASHの社長、日高正博さんから電話があったんですよ。
―――むこうからのコンタクトだったんですね。
小川 :
僕らからしたら、日高さんといえばすごい人なので、本物かな? 騙されているんじゃないか? とかなり困惑しました。騙されたところで取られるお金もないので、日高さんと豊間根が一度会食をしたのですが、ちょうどそれが98年で、フジロック2回目、豊洲会場での開催が終わったあとの話ですね。
来年からは苗場へ移し、そのタイミングでFujirockers.org (フジロックの公式ファンクラブ)の立ち上げを考えているというお話が日高さんからあり、その活動として現地に来ているお客さんにレポートをし、その様子をリアルタイムでインターネットにあげるという試みをしたいとおっしゃっていたようで。
―――いまならツイッターなどSNSがあれば簡単にあげられますけど、20年前としてはかなり画期的ですよね。
小川 :
当時はまだダイヤル回線の時代でしたからねぇ(笑)。その初代スタッフを探しているので、やらないかと言われたみたいで。
それってフジロックにタダで行けるじゃん!! やろうぜ!! と即決し、99年の苗場会場1年目はスタッフとして現地に行くわけです。そこでまず日高さんとの繋がりができて……まぁすぐにクビになるんですけれども。僕ら、現地でレポートしないでライブばかり見ていたので。
―――ははは(笑)。
小川 :
クビになったあと、今度は日高さんの友人が西新宿でやっているレコード屋の2階でロックの専門レコード屋を開きたいから、プロデュースしてくれと言われまして。俺が名前だけつけてやるって、岩盤(=ロック・ディスク)という名前をもらいました。
―――なるほど、それで岩盤なんですね。
小川 :
そこが岩盤としてのスタートですね。2000年の苗場会場2年目はレコード屋「岩盤」としてブース出展しているんですよ。でも野外のフェスではレコードが売れないので、全力で店の宣伝をしろと言われまして。でもお客さんには見向きもされなかったので、僕らはまたフジロックを盛大に楽しんでしまって……(笑)。
それからしばらくして、店のオーナーと経営方針の違いで意見が別れ、 僕らはレコード屋をやめます。
―――バンドでいう、音楽性の違いみたいなことですね。
小川 :
日高さんには殴られるだろうなーと思いながら報告にいくと、「“岩盤”という名前は俺がつけたんだから、名前だけ持って帰ってこい。渋谷パルコの裏、クアトロという建物に10坪あるから、そこでレコード屋をやれ」と言われて。2000年の12月、渋谷パルコの地下1階に新たな岩盤がスタートしました。
「全面協力するから、フジロックのオフィシャルショップを名乗っていいぞ」と言っていただけて、今のスタイルになったんです。
そこでフジロックのチケット扱うようになり、マーチャンダイジングを担当することになり……。日高さんとの繋がりで、転がるようにフジロックと共に岩盤が進んでいったんですよね。ビジネスライクな繋がりは最初からありませんでした。
―――あの時、ホームページを作っていなかったら岩盤も生まれていなかった。
小川 :
そんな素性も知らない奴らに「飯を食おう」と言う日高さんもすごいですけどね。本当に縁というか、運命みたいなものを感じています。契約書とかも一切ないですもんね。だから、きっと当時のSMASHの社員さんには社長が変なチンピラ連れて来たぞって思われていたんじゃないかなぁ。ろくに挨拶も返してくれなかったし……。
―――今もわだかまりがあるんですか?
小川 :
さすがにもうないです(笑)。
実は、元々SMASHでもフジロックのオフィシャルグッズを出しているんですよ。なので、岩盤では毎年オフィシャルと被らないアイテムやデザインを出すように気を遣っています。たとえば、必ず「フジロック×岩盤」と表記して、あくまでも岩盤とのコラボ商品だということを銘打つ。岩盤はフジロックのおかげで今があるというのは忘れないようにしていて、きっちり分けることが僕らなりの仁義だと思っています。
―――岩盤ではキャラクターやアウトドアブランドとのコラボが盛んですが、これもオフィシャルグッズと被らないためのアイディアなのでしょうか。
小川 :
そうですね。フジロック本家のほうはキャラクターとのコラボはしづらいというのがあるのと、それまでフェスグッズでキャラクターとコラボしている前例がなかったので、他フェスとの差別化をするためにはじめました。
―――手塚治虫とフジロックは、2015年からTシャツコラボをしています。これはどういったきっかけだったのでしょうか。
小川 :
僕は幼い頃から日本の漫画やアニメが大好きで、いつかコラボができないかなと機会をうかがっていました。それまでは、ディズニーなど海外キャラクターとのコラボが中心だったのですが、僕の幼馴染で、タツノコプロの代表取締役になった奴がいるんです。まずは彼に相談して、2012年に『マッハGoGoGo』と『ガッチャマン』で、初めて日本のキャラクターとのコラボができました。ある日、その幼馴染から「手塚治虫先生の娘さんも毎年フジロックに行ってるらしいよ」というお話を聞いたんです。
手塚先生といえば、僕が子供のから崇拝していた漫画家だったので、すごくやりたいけど恐れ多くて言えないよ~なんて話していたら、とりあえず一回会ってみたら? と繋げてくれて。
後日、手塚プロへお邪魔すると、担当さんが「私も手塚るみ子も毎年行っています。」と言うので、びっくりしちゃって。恐る恐る、Tシャツのコラボできないですかとご相談したら、ご快諾をいただけたんですよ! まじか!! と思いました。タツノコプロの幼馴染も、僕が昔から手塚先生を特別視していたのを知っていたので一緒に喜んでくれましたよ。
―――毎回、デザインコンセプトがしっかり考えられていますね。
小川 :
Tシャツにただキャラクターをつければいいというのではなく、岩盤がフェスグッズでキャラクターを使うことの意味を打ち出していきたくて、毎回キーワードを決め、ストーリーを考えています。
―――そして、今年もコラボTシャツの発売が決定しました!
小川 :
1回目に出演し、2回目には会場を守ってもらったアトムが、今回は慣れが出てきたので案内人になるという「ツアーコンダクター」をテーマに考えました。ゾロゾロとヒョウタンツギたちを引き連れて、会場まで案内しているイメージですね。
ちょうど、今年は苗場会場が20周年、そして手塚先生も生誕90周年ですので、記念のロゴも入れてもらいました。
―――小川さんはもともと手塚作品がお好きとのことですが、手塚作品との出会いを教えてください。
小川 :
幼い頃から漫画と絵を描くことが大好きで、漫画家になりたいと思っていました。テレビアニメも好きで、最初の出会いは『ジャングル大帝』のアニメだったと思います。当時は週刊誌も一通り読んでいましたし、どの漫画も好きだったんですけれど、僕の中で手塚先生が特別になったきっかけが、少年キングで連載していた藤子不二雄先生の『まんが道』でした。
田舎の少年2人が漫画家を目指すストーリーの中で、2人の師匠的立ち位置に描かれる手塚先生のエピソードを読み、漫画の礎を築いたすごい人だったんだと気付かされて、そこから深入りしていきました。
御茶ノ水にあるでかい本屋でガラスケースに入っている15万円ぐらいの『新宝島』や『メトロポリス』、『来るべき世界』が欲しくてよく眺めていたんですが、その頃にちょうど講談社の手塚治虫漫画全集が出始めたんですよね。ガラスケースに入れられていた漫画が600円くらいで買えるようになって、親にねだって買ってもらいました。そこから手塚先生の作品はほぼ読みましたよ。
―――全集もコンプリートしましたか?
小川 :
ほぼしてると思います!もちろん、全集が出る前にチャンピオンコミックスで『バンパイヤ』や『どろろ』、『ミクロイドS』、『魔人ガロン』なども読んでいましたけど、初期作品も読み返すきっかけになったのは『まんが道』でしたね。
友人たちの間でテレビの話をするとき、芸能人や漫画家は名前で呼び捨てにするじゃないですか。でも、僕のなかでは手塚先生は「神」なので、手塚先生だけは必ず敬称を付けて呼ばないと気が済まなくて。
―――筋金入りのファンじゃないですか!
小川 :
ただの手塚オタクです。
―――小川さんが、一番ロックを感じる作品はなんですか。
小川 :
『バンパイヤ』の、海外映画のような格好よさは衝撃でしたね。いや、間久部緑郎と掛けているわけではなく(笑)。古い洋楽が流れそうな雰囲気を感じるといいますか、大人でも読めるような内容ですよね。
洋画のほの暗いミステリーのエッセンスを持っていたのは手塚先生ぐらいだったんじゃないでしょうか。カット割り、セリフの言い回しや、登場人物が外人っぽくて、あの時代の日本の漫画のなかでは異色だったように思います。当時の僕は『バンパイヤ』のかっこよさに心酔していました。
―――ぜひ、『バンパイヤ』でTシャツを作ってほしいです! ロックにロックを歌わせるとかどうでしょう。
小川 :
そこは……毎回、自分で止めているところがあって。フェスグッズというのは、ある程度ポピュラリティのあるもので、いわばお土産品なんですね。記念に買っていくものを作っているという意識が根底にあるので、手塚先生好きがゆえに自分の趣味に走ってしまうと、ポピュラリティが完全に失われてしまい、万人受けしない可能性がある。そこは毎年ブレーキをかけているところです。
外国人もすごく多いフェスなので、1枚でも多く買ってほしいとなると万人に伝わるキャラクターを持ってくるしかなくて、そこは本当に毎回葛藤です。
使いたいキャラクターたくさんいるんですけどねえ。ヒゲオヤジだけで! とか。
―――そういう点では、アトムはアイコニックですもんね。
小川 :
ブラック・ジャックでも作りたいですけど、ストーリー付けが難しいですよね。ちょっと不吉じゃないですか、フェスの会場で病人が出たらとか……。
―――たしかに(笑)。
小川 :
手塚先生のキャラだとわかるけど、それが誰なのかわからない、というのも起用するには難しいんですよ。今度、『どろろ』がアニメ化するじゃないですか。どろろや百鬼丸の知名度があがったタイミングに便乗させていただきたいぐらいですよ!
―――それこそ、ストーリー付けが難しくなりそうです(笑)。 それでは最後に、フェス初心者に向けて小川さんなりのフジロックの楽しみ方を教えてください!
小川 :
毎年、あれだけアーティストが出ているので(昨年は232組)、ライブをメインにするとかなりしんどくなってしまいます。いくつものステージを行き来するのも見方の一つではあるけれど、それに追われてしまうと、フジロックの本質、本当の楽しみ方ができない気がしていて。苗場の会場に行き、広大な土地の色々な場所を歩いたり寝転がったりして、そこから聴こえてきた音楽のステージに観に行く。そして、おいしいものを食べて、友達と酒を飲んで楽しむ空間がフジロックだと思っています。
―――音楽を楽しむだけがフェスではない!!
小川 :
そして、とにかく雨対策が必要です!!
今までのフジロックは、晴れて灼熱地獄か、雨で大荒れかの極端な天候しかなくて(笑)。土地柄もあり、ちょうどいい気候というのがないんですよ。雨が一番体力を奪われて気持ちも萎えてしまうので、レインコートやポンチョをきちんと準備して、どんな気温でも過ごせるように備えていただいて、汗をかいたらアトムTシャツに着替えて、フジロックを大いに楽しんでいただければ最高です。
フジロックフェスティバル’18
開催日:7月27日(金) 28日(土) 29日(日)