世界を視野に入れ躍進し続ける[ALEXANDROS]の音楽性と手塚マンガには、ある共通項があった――?!
手塚治虫90周年企画スペシャルインタビュー4回目のゲストは、ロックバンド[ALEXANDROS]のドラマー庄村聡泰さんが登場!
心から尊敬している人物は手塚治虫以外いないと熱い想いを語る庄村さんに、手塚作品との出会いやオススメ作品はもちろん、ミュージシャンの視点からみたマンガ表現と音楽表現の関係性についてなど、いろいろなお話を伺いました。
[ALEXANDROS](アレキサンドロス)
2007年本格始動。
2015年よりユニバーサルミュージックとグローバル契約を結び、アルバム「EXIST!」はオリコンウィークリーチャートで初登場1位を獲得する。
国内のロックフェスティバルに数多く出演しヘッドライナーを務め、TVドラマや映画・CMなど多岐にわたる楽曲提供を行うなど、幅広い層に支持されている。
2018年8月にはバンド史上最大規模となるワンマンライブを千葉・ZOZOマリンスタジアムで開催予定。
秋のアルバムリリースに先駆け、5月23日にニューシングルをリリースする。
―――手塚治虫記念館にも足を運ばれたことがあるという庄村さんですが、手塚作品との最初の出会いはいつでしたか。
庄村聡泰さん :(以下、庄村)
もともと、父親の趣味で手塚作品が家にいくつかあったんですよ。『ブッダ』全巻、『火の鳥』全巻とか結構重厚感のある内容のものが。幼少期に何度かトライしてはやめたりしていたんですが、ようやく対象年齢に追いついたんでしょうね。中学生という多感な頃に『ブッダ』をきちんと読み終えたのが最初の手塚体験でした。
そこから、他の作品も読んでみたいとなり、近所の図書館で手塚治虫全集を借りてくるようになって。まずは『ビッグX』や『マグマ大使』、『W3』、『ぼくのそんごくう』あたりを読んで。
その頃、親から「本を読め」とよく言われていましたけど、「小説に書いてあるようなことは、全部、『火の鳥』に載ってっから、もうそれ読んでるから」と突っぱねてましたね。
―――音楽に目覚めミュージシャンになろうと志したのはいつ頃なのでしょうか。
庄村 :
“ミュージシャン”という仕事をきちんと認識するのは結構あとなんですけど。音楽に目覚めたのは小学校5,6年あたりかな。TVで観た「LUNA SEA」というバンドに憧れたのがきっかけでした。なかでもものすごく点数の多いドラムセットにズンと心を撃ち抜かれて。その頃好きだった「機動戦士ガンダム」のコックピットのように見えたんです。
それからずっと、ライブ会場という大きなロボットを操縦するような感覚でドラムを叩いていますね。他のメンバーが自由に動き回るなか、僕だけそのコックピットから一歩も動けないんだけど、僕の所作ひとつでロボットの動き方も変わってくる。お客さんのビート感に関わるポジションということで、そこは使命感を持ってお仕事をしております。
―――面白い感覚ですね! アニメもその頃よく観ていたんですか?
庄村 :
そうですね。当時はガンダムがすごく好きで。アニメをアニメとして、マンガをマンガとして、映画を映画として認識したのは多分小学校入学くらいで「機動戦士ガンダムF91」を親に観せてもらったのが最初だったと思います。
―――多感な頃といえば、手塚治虫は戦争を経験し、作品にもそれが色濃く反映されていますが、思春期に起きたことでいまの自分にも影響を及ぼしていることはありますか?
庄村 :
いまじゃ本当に考えられないとよく言われるんですけど、僕は中学校1年の頃、すっごいイジメられっ子だったんですよ。そういう時期を過ごしたが故に、人に必要とされたい、という根源的な欲求に深く結びついたんだと思います。
中学校という小さなコミュニティのなかではあるけど、そういった経験をしたことで、良い意味で人の顔色が窺えるようになりましたし、人が嫌がることに敏感になれました。いま振り返れば、大多数は僕のことを本当に嫌いでイジメてたわけではないので。中学生ってそんなもんじゃないですか。
そう思えるようになったのは自分が必要とされているというプライドが持てたから。音楽に出会って、ドラムが叩けるようになって、初めて、「お前が必要だから俺のバンドに入ってくれ」と人に必要とされたんです。ドラムを通して外部とコネクトできた瞬間でした。未だにそれは原動力のひとつになっていますね。
不遇の時代をずっと過ごしながら、お前が必要だ、お前はすごいと言って欲しい、と強く思っている人間が、のちにいつか見てろ、自分たちの音楽はすごいとわからせてやる、と強く思っていたメンバーと合流することになるという。
―――運命的ですね……! バンドメンバー4人で共同生活をされていた時期もあると伺いましたが、同じ志を持つ仲間同士で生活をすることでプラスになったことはありますか。
庄村 :
やっぱり、同じ景色を共有できたことですね。そこはすごく大事で。
例えば、自分たちのバンドがもっと大きくなったときに、昔はこうだったのにいまはこういうことを言うようになったとか、歩いて行くうちになにかに影響されたり、メンバー間で方向性が違ってきたりする可能性があると思うんですよ。人間ですから。でも、お互いの出発点はあそこだったといつでも同じ景色を思い出せることで救われるんじゃないかなって。こいつの根っこはああだったから、全然大丈夫だと思えるようになりましたね。
―――よりお互いを知るきっかけになったと。
庄村 :
こいつはトイレットペーパーをよく使う奴だ、とか、あいつは風呂が長い、とか(笑)。
―――急に生活感が(笑)。
庄村 :
良い部分も悪い部分もひっくるめて、こいつはこういう奴なんだって。どんなお仕事でも一緒にやる以上、相互理解なしでは成り立たないと思うんです。
マンガ家さんでもいきなり作風がガラッと変わったりしますよね。でも、人間性を知っているのとそうじゃないのとでは全然違うと思うので。トキワ荘に住んでいたマンガ家のみなさんもきっと心の中にトキワ荘での思い出があったでしょうし。
バンドでも、どん底に落ちたような時とか、逆に売れすぎてワケわかんなくなっちゃったときとか、4人が共通項を持っていると初心に立ち返るのがすごく早いと思います。
―――庄村さんの個性的なファッションについても伺いたいんですが、手塚治虫でいうところのベレー帽のように、庄村さんと言えばコレ! といトレードマークを選ぶとしたら何になりますか。
庄村 :
ファッションは気分でどんどん変わりますね。いま面白いものをどんどん取り入れていく感じです。
自分の場合、ドラムセットのクラッシュシンバルの位置がすごく高いところにあるんですよ。トレードマークといえばそれかな。音楽を良く知らない人でもあのシンバルの位置を見たら「なんだこりゃ?」ってなると思うので(笑)。
トレードマークってやっぱり強いですよね。「丸鼻・丸メガネ・ベレー帽で誰を連想しますか?」って言われたら、手塚治虫がすぐ思い浮かぶ。それこそ手塚作品のキャラだってシルエットだけで分かるようなキャラクターばかりじゃないですか。
―――シンバルの位置はトレードマークの意味も含まれていたんですね。
庄村 :
ドラムは楽器自体の形の選択肢が無いんですよ。[ALEXANDROS]に加入する前、対バンしたバンドのドラムのシンバルが両方めちゃくちゃ高いセッティングだったんです。あの位置にあったら面白いなと思ってパクリました(笑)。そのままやるとただの真似ごとになってしまうので、片方は高くして片方は下げて。
―――ぶっちゃけ、叩きにくくはないんですか?
庄村 :
慣れました(笑)。テレビに出演するときにも、シンバルの位置についてツッコミをいただいたりとか。シンバルが高いでお馴染みの、みたいな紹介をされたりします(笑)。
―――ずばり、庄村さんからみて[ALEXANDROS]はどんなバンドだと思いますか。
庄村 :
自分たちの楽曲って、HIP-HOPのような曲があったりメタルだったりエレクトロだったり、本当にジャンルレスで。
音楽表現の意味で勝手に手塚先生にシンパシーを感じている部分なんですけど、高校の時に『時計仕掛けのりんご』や『ガラスの脳』なんかの短編集を読んで、「マジかよ!」って思ったんです。多重人格者かと思うくらい、いろんな要素がものすごい密度の濃さで多岐に渡っているじゃないですか。自分自身も、ざっくばらんにいろんな音楽を聴くんですけど、そうなれたのもジャンルレスな手塚作品を読んでいた賜物なのかなと思ったり。
“カメレオン”でいたいなって思うんですよ。手塚先生も『ゲゲゲの鬼太郎』を読んで「僕だって妖怪マンガが描けるぞ」と『どろろ』を描いちゃうように、良い意味で染まりやすさのある人だと思うので。しかも、『どろろ』は今度アニメ化もするし、いまでも上位に入る人気作品なわけで。僕も自分を見失わずに染まりやすい人間でいたいし、どんな色にも染められるキャンバスを持っておきたいなと思います。
―――こだわることに囚われないということですよね。自分たちの音楽も自由に変化するし、感覚的にいまこれが面白いからこれをやろうという。
庄村 :
ちょっと前に制作でNYに行っていたときも、自分たちのフィルターを通して感じたものを出し合って、こんな面白い曲を聴いた、こんなライブに行った、じゃあそれやってみようか、とか本当にそんなノリで。
対象を設けて作っていないんですね。音楽もマンガも、エンタメ全般そうですけど、面白けりゃ伝わるじゃないですか。どんな方にも響くようにではなく、自分たちの中で本当に良いなと思えたものだけを貪欲に作っています。
―――最初の手塚体験という『ブッダ』ではどんな感想を持ちましたか?
庄村 :
びっくりしました。とにかくびっくりしました。シッダルタ(のちのブッダ)が生まれる前日譚をゼロ地点として、そこから歩みだす人間の一生がきちんと誕生から最後まで緻密に描かれている。僕のなかで完璧な結末を迎えている作品です。登場人物一人一人に細かくスポットライトを当てながら、ライトが消えた後も面倒を見るようなものは、アニメでも映画でも観たことなかった。そんなエンタメが紙の上で存在するんだとエラい衝撃を受けたのを覚えていますね。それこそ浮浪児のタッタの生きざまに、自分を投影して読んでいましたから。
タッタの最期はもう本当にトラウマレベルの衝撃で。結局、家族や仲間を殺したコーサラ国への復讐心を捨て切れないまま、最期は象に踏みつぶされて死んでしまうんですよね。シッダルタより前の、第1話から登場する主要キャラなのに!
『ブッダ』って無常に死んでくキャラがすごく多いじゃないですか。ダイバダッタもそうだし。自分の中の死生観や無常観みたいなものにとても大きな影響を与えていますね。タッタを通して、人の生死は幸・不幸ではなくて、ひとつの運命(さだめ)として受け入れるしかないし、人生ってそういうもんなんだなって。『ブッダ』に出会ってなかったら、物事の捉え方が全然違ったと思います。
―――手塚キャラで一番好きなキャラクターもタッタですか?
庄村 :
そこはアセチレン・ランプですね。それも、『アドルフに告ぐ』のアセチレン・ランプ。
―――あの劇画タッチのハンサムバージョン……!
庄村 :
他のマンガに出てくるどのランプより一番格好良いと思います。一番怖いし、もう、復讐の鬼と化しているわけじゃないですか。あの“憎めない悪役”として有名なランプが最強の悪役となって峠草平の前に君臨するという。悪役に徹しているところが超格好良くて大好きですね。
女性キャラだと、ピノコや『ドン・ドラキュラ』のチョコラもかわいくて好きですね。いわゆる性への目覚めは和登さんだったりしますし。上手いですよね、未成年のちょっと青臭いエロを描くのが。『ブッダ』だとシッダルタに恋するスジャータもそうですね。色目を使ってでも、苦行の道へ進むシッダルタを止めようとするのもすごいですよね。女性の“オンナの部分”を描くのも上手い。奇子も魅力的に描かれていて好きだし。あ、ばるぼらもいいな!
―――出てきますね~! 女性キャラでいうと、ばるぼらなんかは芸術に携わっている人々に好かれそうですよね。どうします? ばるぼらが転がり込んで来たら(笑)。
庄村 :
とんでもないでしょうね(笑)。いろんな男の人生狂わせて、当の本人はなんとも思ってない。そのドライな感じもすごい好きなんです。タッタの生きざまに通ずるところもあるし。そういう意味だと『陽だまりの樹』なんかもとてもドライな終わり方をする。『火の鳥』のおぶうと弁太もそうじゃないですか。やっと会えたのに、すれ違ってしまう。
―――もっと、ドラマチックな演出にしても良いのに、抗えない運命に翻弄されてしまう。少女漫画だったら絶対ハッピーエンドなのに!
庄村 :
そうじゃない終わり方をするところが僕は好きですね。人間臭い方が心に刺さるし、創作とリアルの垣根みたいなところを、ときにぶっ壊し、ときに戻る。
ハッピーエンドを描かせて上手い作家さんってたくさんいらっしゃるでしょうけど、「無常エンド」は手塚治虫の十八番だよなって個人的には思いますし、無常観を描くことは手塚治虫のひとつのテーマになっている気がするんですよね。
―――まだ、手塚作品を読んだことのない、特に若い世代にオススメするとしたらどの作品を選びますか。
庄村 :
そこは『ブラック・ジャック』一択ですね。人生における喜怒哀楽のすべてが一番読みやすくかつ分かりやすい形で詰まっているからです。
キャラクターもベストアルバムみたいな感じで集合しますし、これを聴いておけば間違いないじゃないですけど、全部読めば、絶対、誰でもなにかしら必ず心に刺さる話があると思うので。『シャチの詩』のエピソードなんか、自信を持って「これは泣けるぜ」と言えるわけじゃないですか。
なによりB・Jがとっても魅力的だし。何回読んでも本当に面白いですよね。最近ではボンカレーとコラボしたり、ドロンジョ様と婚活したり(笑)と話題ですし、そういう意味でもオススメですね。
―――『鉄腕アトム』のリメイク作品『PLUTO』、『W3』の舞台に足を運ばれたことをSNSに書かれていましたが、いかがでしたか。どのシーンが印象に残りましたか。
庄村 :
どちらも本当に素晴らしかったですね。特に『PLUTO』は、人間がステージの上でする表現をひとくくりにした中でも生涯忘れられない経験になりました。お茶の水博士がお茶の水博士過ぎて、ずっと冒頭から泣きっぱなしでしたから。お茶の水博士が袖からダダダッと登場するシーンなんて、泣ける要素なんかまったくないのに(笑)。愛してやまない手塚治虫のキャラクターが息をして動いているのを観て、涙腺がバカになってしまって。お茶の水博士がお茶の水博士だったというだけで感動する手塚ファンもここにいるんですよ!
『PLUTO』は浦沢さんの作品ですけど、『PLUTO』と『W3』を同じ原作者だと誰が思うのって話ですよ。改めて、彼の広げたキャンバスの大きさに驚かされました。
―――『W3』はどうでしたか。
庄村 :
『W3』は本当に膝をポンっと打つような演出だらけでしたね。視点を変えるだけでこんなにも景色が変わって見えるんだよっていう。
子供の頃ってそうですよね。限られたおもちゃしか与えられていないのにも拘わらず、宇宙にも4次元にだって行ける自由な世界がそこにはあったわけじゃないですか。観たときにそういう想いがフラッシュバックしました。
ばっさり人形劇にしたというのも好感が持てましたね。人形だったからこそ、ズームになったり、ぶつかったら首だけが団子状に連なったり、ああいう縦横無尽な表現。舞台の枠のうまいハズシ方をしたよなって。
―――マンガ原作の舞台化もそうですし、アニメーション表現に音楽は欠かせないものとなっています。マンガ・アニメと音楽の関係性について、ミュージシャンとしてどう思われますか。
庄村 :
そうですね、ミュージシャンは現実とリンクしている職業ではあるんですけど、妄想の産物の具現化という意味に関してはマンガも音楽も映画も出発点は同じだと思うんですよ。あとはアウトプットの方法論が違うだけな気がしていて。僕の観点で言うと繋がるのも必然だと思っています。
音楽が流れるようなシーンとか、これはロックだなって感じるマンガも存在すると思うし。『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」をリメイクした『PLUTO』も、ゲーテの戯曲を独自の目線で描いた手塚先生の『ファウスト』もめちゃくちゃロックな解釈だなと思いましたし。
受け手がどう思うかですよね。やはり受け手が投影できるものであって欲しいので、正解だとかキーポイントだとかこういうことをやっていますというのは少しボヤけているくらいが丁度良くて。
僕らの音楽だってそうですし、それぞれの作品を受け取った人が思い描いたイメージを色んな方向に膨らますことで多種多様な人間が育つ。そういう存在という意味でも関係性は似ているし、柔軟なマインドで僕らの音楽も聴いて欲しいし、そういう対象であって欲しいなと思います。
―――もし、実際に手塚治虫に会えるとしたら、どんな話をしたいと思いますか。
庄村 :
いやーーー、もう掛ける言葉もないですね。一度考えてはみたんですけど、言えたとしても、ずっとうつむいて「ファンです」とお伝えするのがやっとな気がします(笑)。
でも、もし、話が出来るとしたら、ほぼ都市伝説として囁かれている『火の鳥』の続編について聞いてみたいですね。『火の鳥』って現代編で終わる予定だったらしいじゃないですか。過去と未来からどんどん現代に向かっておしまいっていう。最後はどうなるのか。読みたくて知りたくて、もう、恨み節に近くなってる(笑)。
―――庄村さんからみたマンガ家・手塚治虫とはどのような存在ですか。
庄村 :
僕、心から尊敬している人物って、手塚治虫以外いないんですよ。なぜかと言うと、手塚治虫は音楽で例えるなら全部のジャンルをひとりで始めてしまったような人なんです。クラシックを始めて、ジャズを始めて、メタルを始めて、パンクを始めて、みたいな。諸説ありますけど、日本でアニメを始めたのもそうじゃないですか。
そんなあらゆるジャンルのゴッドファーザーみたいな人間なんか他にはいないので。世界一すごい人だと思っていますし、唯一“尊敬”という言葉を送れる方ですね。
―――最後に。メジャーデビューしてから3年が経ち、8/16にZOZOマリンスタジアムでの初ワンマンライブを控え、5/23にはニューシングルが発売されるなど目覚ましいご活躍ですが、当時といまの環境とで一番変化したこと、変わらないことはなんですか。
庄村 :
根本的なところはなにも1mmも変わってないですね。進歩もしていなければ退化もしていない。僕らの音楽でシーンをひっくり返してやりたい、トップを取りたい、もっと成功したいという野望めいたものは変わらずギラギラと燃え盛るばかりですね。上を見ればキリがないけど、どうせ看板をブチ破るんだったら、野望がある方がやりがいがあるし、創作意欲も途切れない。
僕個人としては、誰かに必要とされたいという欲求がどこまで行ってもあるので。それは永遠に満たされることはないのかも知れません。『火の鳥』黎明編の最後にある、穴を登り切った先にあるもの、みたいな。あれはひとつのゴールだったはずのに、そこで終わらないじゃないですか。どこまで行っても行く先はスタート地点だということをあのラストでは描いてくれている。
マリンスタジアムのステージに立っても、終えた次の日には全く違うステージが見えていると思います。どうせ終わりがないものの途中で死ぬなら、行けるところまで行ければ良いなって。