祖父の肖像(年代不明/撮影場所不明)
祖父・手塚太郎の肖像。長崎の控訴院院長をしていた。
手塚良仙(陽だまりの樹)の息子。
関西大学の創立者の一人であった祖父・太郎が亡くなる。
兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ引っ越す。
少年時代(1936年4月/宝塚・撮影場所不明)
大阪府池田師範附属小学校の制服姿で。
大阪府池田師範附属小学校(現、大阪教育大学附属池田小学校)に入学。
二年生のとき、髪の毛がちぢれていたので、「ガヂャボイ」というアダ名をつけられる。
三年生の二学期から、乾秀雄先生が担任となり、綴り方教育をうける。
坊主頭になり、主人公はそれがモデルの、最初のマンガ「ピンピン生チャン」を描く。
田河水泡「のらくろ」や「ナカムラマンガ・ライブラリー」を愛読。
田河水泡のマンガ「小型の大将」を読むために『少国民新聞』をわざわざ購読してもらう。
手塚治虫が初めて描いたマンガ「ピンピン生チャン」より
五年生よりメガネをかける。鉄筋の校舎が新築され、空き教室や、建築工事の作業小屋などで、友人といっしょに陰謀団ごっこをする。火星人の出て来る紙芝居「火星人来る!!」を描く。
「フクチャンと魚釣」というマンガの中に初めてヒョウタンツギが登場。
「支那の夜」という長編マンガを描いて学校で回覧、先生にも評判となる。
友人たちといっしょにガリ版刷りの回覧誌をつくる。
友人から借りた、平山修次郎著『原色千種昆蟲図譜』を見て、”オサムシ ”という虫を知り、本名の治に虫をつけて”治虫”というペンネームをつける。昆虫採集を始める。
「ピーピーピーコ」などを描く。
『少国民新聞』連載の海野十三「火星兵団」に夢中になる。