「手塚治虫のブッダ 救われる言葉」より

生命はみんな同じこれを無常というのだ恐怖に身をまかせて


生命はみんな同じ





【解説】
 これはブッダが悟りを開く直前である。コブラに咬まれて死んでしまった村の娘スジャータ。ブッダは娘の魂を呼び戻すために、彼女の肉体の中に自分の心をとけこませてゆく。

 そこは不思議な世界だった。すると聞いたことのある老人の声がした。見ると、ブッダがまだ王子の時にやがてあなたは人々に悟りを説くと予言したブラフマン(梵天)である。
「あなたが子供の時から見たいといっていた世界だ。よく見なさい」

 ブッダが見たのは無数の生命のかけらたちだった。彼はブラフマンに娘の生命の行方を尋ねる。ブラフマンは目の前の生命のかけらをどれでも持ち帰れば、娘は生まれ変わることができると答える。

 動物も植物も、また人間も、その生命は同じもの。これはブッダが後に悟りを開いた時に説く真理である。
 生命に優劣はなく上下もまたない。宇宙という大きな大きな生命のもとから、無数の生命のかけらは生まれ、世界のありとあらゆるものに生命を吹き込む。それは動物だろうが植物だろうがいっさい区別しない。

 私たちには人間こそが最もすぐれた生き物であるという思い上がりはないか。そのために他の命あるものたちを苦しめてはいないか。今一度そう自分に問う必要はあるだろう。

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これを無常というのだ



【解説】
 人間がもし80年生きられるとしても、その間には肉体的または精神的に絶えず成長し、変化していく。それは人間に限らない。この世にあるものは生物、無生物にかかわらず、すべてが生成し、変化し、消滅する。それは一瞬も停止することはない。恒常であるものは何もない。

 この「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の考えはブッダの教えの基本をなすものの一つである。

 諸行無常をうたった有名な歌に「いろは歌」がある。「色はにほへど散りぬるを わが世たれそ常ならむ 有為の奥山けふ越えて 浅き夢みし 酔ひもせず」

 また人の世の栄枯盛衰をあらわしたものとして「平家物語」では「祇園精舎(ぎおうしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり……」と、冒頭にうたわれている。

 すべてのものは、原因(因)や条件(縁)と関係し合って成立している。これを縁起(えんぎ)、因縁といい、様々な結果を生み、しかも絶えず変化していく。

 永遠に同じ形や状態をとどめることはない。ブッダは「永遠不滅のもの」については、あるともないとも名言していない。永遠不滅のものなど認識することができないからである。

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恐怖に身をまかせて



【解説】
ブッダの説教を曲解して恨み、そのあげくブッダを殺そうとする者がいる。それを知りながらブッダは説教に出かけようとしている。必死に止める弟子は「あなたは殺されることが怖くないのですか」と問う。それに答えたのがこの言葉である。

誰にでも死の恐怖はあるものだ。
とくに殺されることの恐怖は通常の死とは違う恐怖であるだろう。

だがブッダはその恐怖をごまかそうとしない。
今日ごまかしても明日はまたそれ以上の恐怖に襲われるからだ。
それならいっそのことその恐怖の中で安らぎを見出そうブッダはいうのだ。

これは悩みや苦しみ、あるいは貧苦、身の不遇についても同じことがいえる。悩みや苦しみをそのまま悩んだり苦しんだりするよりも、そのど真ん中に自分をおいてやすらぎを見つけ出す。貧苦や不遇を呪うことなく、その中で安らぐにはどうすればよいかを考えてみるのだ。

考えてみるとブッダは決して難しい理屈はならべない。いつも一貫していうのはこのことだ。
恐怖や悩み、苦しみ、不遇はそのまま受け止めなさいというのだ。
そこから逃げださずに一度は受け止めれば、心は安らぎ、解決の糸口も見出せる、といっている。

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手塚治虫のブッダ 救われる言葉
(光文社知恵の森文庫)


幸福な生き方とは?真の人間らしさとは?
死後の世界とは?生命の尊さとは?
巨匠・手塚治虫が12年間かけて描いた「ブッダ」の作品中から、
勇気を与えてくれる言葉、心を癒してくれる言葉を集大成。
非暴力、平等主義、ヒューマニズム……。
宗教的カリスマとしてではなく、哲学者としてのブッダの広大な思想に迫る。
(裏表紙より)
「ブッダ」の作品中にちりばめられた印象的な言葉をピックアップ。
丁寧な解説が加えてあり、様々な「生きる知恵」が学べます。
1994年講談社発行の文庫版。

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