1945年4月9日
四月九日(月)曇り小雨 稍寒し
六日の夜から昨日の未明にかけて、我が方が南西諸島に遊戈する敵艦団に対し立体的大攻撃を行い、撃沈破四十何隻という久し振りの大戦果を挙げた。
ラジオがこの報道を伝えるとき、殆ど二年振りにあの懐かしい軍艦マーチが鳴り始めた。ああ、この音楽をきくことを、国民がどんなに待ちこがれていたことであろう。
尚、一昨日のB29、B51による空襲の戦果は、撃墜破総計百余と認定された。
今朝七時十五分に大阪駅で青山の歓送があるというので、定刻に大阪駅に集合した。
始めに菅沼と青山の挨拶があり、それから上田、八橋、吉見等が代わる代わる出て応援歌や拍子をやった。人気(ひとけ)の多い大阪駅の事とて、物見高い人々がいつのまにかぐるりに集まって、猿回しでもみているように熱心に見物している。しまいにみんなのぼせてしまって、清廉の君子、尾崎君までがどたんばたんやり始めた。とうとうみんな片はだぬいで、青山のまわりを肩くんだままぐるぐるまわり出し、「富士の白雪ゃノーエ」をうたい出すという騒ぎ。
するとそこへいきなり巡査(ポリ)みたいなのがはみ出して来て、「こらっ、止めろッ」と怒鳴った。みんなはピョンと飛び上がってやめてしまった。すると「上級生はだれだ」という。皆ボソーッと立っていると、「そんならお前が来い」といって、運悪く私の手が掴まえられてひっぱられた。私はその時ふとジグス(アメリカのマンガ「親爺教育」の主人公)が酒場で巡査にひっぱられて行く所を思い出して、何だかマンガみたいな気持ちになった。するといきなり友だちの中から辻ポンが走り出てきて、私の手をイヤという位握りしめ、「手塚ッ、早よ逃げろ」と言った。驚いたのは巡査で、「そんなら貴様来い」といって三人がかりで辻ポンの手をひっぱって行ってしまった。私は何だかわからんで大阪駅の真ん中にポカンとつっ立っていると、また別の巡査が来て、私をわざわざ人ごみの中へつれ出して一ぱつなぐりやがった。私は末代までその巡査をうらみに思って、死んだらとり殺してやろうと決心した次第である。
さて、いらぬ巡査がはみ出した為に座が中断されたが、やがてひきつづいて壮行会がつづけられた。「海ゆかば」が斉唱され、皆は何回も何回も万歳をした。それからぞろぞろ構内へはいって行って青山を見送った。まぎわになって例の黄瀬が「ちこくやー」とどなりちらしながらわり込んで来て、肩車にのってまた破れ傘をふり回し始めた。肩車にのっているので、人ごみの中から黄瀬と番傘だけがつきぬけて遠くからよく見えた。