1987年
ぼくは、ペンネームに虫がついているように、学生時代、昆虫マニアで、四六時中昆虫採集にあけくれていたときがあった。
蝶集めならだれでもやることだが、捕らえた蝶を殺すのに別に殺虫瓶に入れる必要はなく、二本の指で蝶の胸を強く押さえて潰せばよいのだ。蝶や蛾ならひと押しで死んでしまうほど呆気ない。
それを長いあいだ平気で続けていたのに、あるときからそれをやることがひどく怖くなってしまった。胸を潰すとき、つぶらな蝶の目が訴えているような気がして、捕らえても逃がしてやることが多くなり、やがて蝶集めもやめてしまったのだった。
なにがきっかけか、と考えてみると、いろいろある理由の中でやっぱりあの戦争体験がいちばん衝撃的だったからだということになる。
空襲で大勢の人間の死体が散乱している中に、牛や犬の死体もあって、人間の死体といっしょくたに燃えていた光景が、いまでも目に浮かぶ。彼らはわけも知らずに人間の殺しあいのまきぞえを食ったのだ。
特定の動物がちやほやされる一方で、たとえば打ち捨てられた動物園の動物たちが薬殺されたり、三原山の噴火で置き去りにされた動物が餓死したり、というニュースが毎日マスコミを賑わせる。人間本位の、人間に牛耳られた世界では、他の生きものは生存の権利を失うのだ。ぼくの「ジャングル大帝」では、その矛盾を強調したかった。
だがそういった悲しむべき状況にあるにもかかわらず、自然保護や愛護の運動が根強く続いていることは、人間のすばらしさを感じさせる。生物の、生きるためのかかわりあいの中で、人間ひとりひとりもその責任を担う自覚が消えていないことは、まことに喜ばしい。