今月のオススメデゴンスでは、『やけっぱちのマリア』をご紹介いたします。
性描写や暴力シーンについて当時問題となったこの作品ですが、今の時代に読んでみると、過激すぎる!というほどでもなく、時代の流れや価値観の変化を感じます。
(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集「やけっぱちのマリア」2巻 あとがきより)
「やけっぱちのマリア」は、まあ、いわばキワモノです。
ちょうど、この当時子どもの性教育の見なおしが叫ばれ、「アポロの歌」の解説でもかきましたが、少年誌に大胆な性描写やはだかが載りはじめた時代です。
このあと、ぼくは「ママアちゃん」なるタイトルの性教育アニメを作り始めています(タイトルは、その後「ふしぎなメルモ」にかわりました)。ぼくたちが少年漫画のタブーとして、神経質に控えていた性描写が破られて、だれもかれも漫画にとりいれはじめたので、こんなばかばかしい話はない、こっちはかけなくて控えていたのじゃない、かきたくてもかけない苦労なんか、おまえたちにわかるものかといったやけくそな気分で、この駄作をかきました。
だから、「やけっぱち」というのは、なにをかくそう、このぼくの心情なのです。
学園の一匹オオカミ、「ヤケッパチ」こと焼野矢八が、エクトプラズムの娘・マリアを『出産』した事で繰り広げられるドタバタ劇。作者自身「やけっぱち」の気分でかいた、「駄作」、と真情を吐露している作品でありながら、この「やけっぱちのマリア」もまた、生命や性の問題を真剣に、また分かりやすく描いた、明らかに手塚作品の美徳を備えた作品です。
「だれもかれもが漫画に(性描写を)とりいれはじめた」という1970年代、それならばと手塚治虫も性描写に取り組み始めるのですが、その真摯な姿勢はとても「エロ・グロ・ナンセンス」などという当時のはやり言葉に収まらぬもので、たとえば「火の鳥」に見える生と死の神秘や、宇宙の不思議などをじっと考える姿勢と、根本でなんら変わらない真面目さを伴っています。マリアやヤケッパチが持ち出す性や恋愛についての素朴な疑問や戸惑いは、ヤケッパチの担任である秋田先生をはじめとした大人達によって、丁寧に説明されており、明らかにただの「エロ」とは一線を画して、少年達に性について真面目に考えさせたい、という意図が込められています。どんな作品にも、作者からの真剣なメッセージが強く打ち出されており、たとえ「駄作」と言われる作品であろうともこの「遺伝子」が必ず備わっていることこそが、手塚作品の美徳なのです。
同時期に発表された「アポロの歌」が愛とは何かという命題をシリアスに描ききったのに比べれば、確かに「やけっぱちのマリア」はギャグマンガという体裁で、主人公は乱暴、ヒロインはダッチワイフ、ストーリーも「タテヨコの会」との小競り合いばかりが主軸となれば、良質の作品が多い手塚治虫の作品群としては、「悪い子」なのかもしれず、世論の非難を浴びてしまうのも仕方がなかったのかもしれません。事実、連載誌である『週刊少年チャンピオン』が福岡県児童福祉審議会に有害図書指定を受けるなどの事件があり、決して世間の風当たりはやさしくなかったことがうかがえます。