●手塚治虫と同い年
久里先生は手塚治虫と同じ年の御生まれなんですよね。父は三歳、鯖を読んでいたので。
久里洋二さん(以下、久里):そうなんだよ! ずっと三歳年上だと思ってた。あの頃は一つでも先輩だと尊敬するような風潮だったから、ずっと尊敬していたのにな。僕が4月生まれで、手塚君は11月だというから、僕のほうが歳上なんだ。彼が亡くなってから初めて分かった(笑)。
みんな、騙されていましたね。
久里洋二さん(以下、久里):仲間を押さえつけるには良い手だな(笑)。
1928年生まれには天才が多いんですよ。アンディ・ウォーホールや、スタンリー・キューブリックが1928年生まれで。生きていればみんな、同い年ですね。
天才か、馬鹿かどちらかでしょう。しかしなぜかみんな短命なのね。僕も70の時に患って入院した。幸運にも助かったけど、退院するとき、医師や看護婦さんたちがバンザイしているんだ。よほど助かる人がいないんじゃないか、って思ったよ。
先生にはまだまだ、仕事をして欲しい、ということに違いないです。
いやいやそうじゃないよ。本当に、どうして生きてるんだろう、と思うよ。……祟りかな(笑)。
そんなことはないですよ(笑)。
●手塚治虫と久里洋二のファースト・コンタクト
手塚君の家には、彼が結婚したばかりの頃に一度行ったことがあるよ。目黒だったか…。
初台ですね。
君覚えていない? 角っこの家でさ。何しに行ったのかは覚えていないんだけど、行ったね。
まだ僕は生まれていないですからね(笑)。久里先生は、手塚治虫とはどちらで初めてお会いになったのですか?
マンガ集団ですね。あの頃、子どもマンガの集団ってあまりなかったでしょう。僕らも初めは、マンガ集団には入らなくて、ちょうど昭和3年生まれの若いマンガ家ばかりで独立マンガ家として、マンガ家や編集者がいっしょになって銀座の喫茶店に集まっていたりしたのが、そのうちみんなマンガ集団に入っちゃって。
その頃から、手塚君もマンガ集団の会合によく顔を出していたね。横山隆一先生のお宅にもちょくちょく顔を見せるようになって。子どもマンガ家でマンガ集団に顔を出していたのは、手塚君と、あともう一人いたね。あとのマンガ家は顔を出していなかった。
真鍋博先生はマンガ集団には入っていらっしゃらなかったんですか?
彼は、入っていなかったね。彼は僕が麹町にいた時に、麹町一丁目に小さな新聞社があって、そこでイラストを描いていたんだ。僕の家の前を毎日通るものだから、しょっちゅう会っていたな。
マンガ集団で手塚治虫とお会いになって、すぐアニメーションの話をされたのですか?
いやいや。その頃の僕はマンガ家としてどうやって食べていくか、ばかりを考えていたからさ、まだアニメなんて考えてもみなかった。
●日本・戦直後アニメーション事情
久里洋二 『人間動物園』 1962 より
アニメを最初にやろうと思われたのは、どういったきっかけだったんですか?
アニメは、昭和28年の日比谷の映画館で、長編作品の間の短編作品で見たんだ。当時は映画に関する法律があって、長編作品の間に必ず、短編とニュースを挟まなくてはいけなかった。短編映画というのは、それだけでは食べていけないから、文部省かどこかがそういう決まりを作っていたんだ。これは、昭和34、5年ぐらいまで続いたんだけど、そのうち映画会社も短編映画を作らなくなった。なにしろ短編映画は儲からないからね。
テレビの登場で、劇場自体に人が入らなくなって大変になって、それで規制が解除されたのかな。
僕が日比谷で見たのは、長編の方はなんという映画だったか思い出せないけれど、マクラレンの短編アニメーションで、「線と色の即興詩」という作品だった。見たことあるでしょう?
ノーマン・マクラレンですね。もちろん見ました。
あれを見てびっくりしちゃった。「なんだろう!?これ!」と思った。絵も今までのマンガ映画には無いタイプで、音もいいんだよね。それを見て、アニメーションを作ろう、と思い立ったんです。
ところがその頃はアニメーションを作ることなんて考えている人はめったにいなくて、作り方もわからない。カメラだってコマ撮りできるものなんてなくてね。進駐軍払い下げの8ミリカメラを買ったんだけど、コマ撮り機能なんてついていない。
当時済んでいた4畳半の机の上にカメラ台を置いて、机の上の絵を撮影しようとするんだけど、ちょっと押すと、ざーっと6コマぐらい進んじゃうのね。
これから、絶対アニメの時代が来るから、って女房にはよく言っていたけど、「何よアニメって」なんて言っていたよ。
しばらくしたらテレビが復活して、新橋なんかには大きなテレビで「ひょっこりひょうたん島」なんかを映していて、そっちには人がたくさんいたね。アニメのほうはそうでもなかった。見てみるとみんな、ディズニーとか、海外のアニメばかりでね。日本のアニメを作らなくちゃいけない、と、ずっと思っていたんだけど、そんなことしてられない。お金はないし。
フィルムなんて8ミリでしょ? そんなんじゃどうしようもない。だからまだ、アニメじゃぜんぜんやっていけなかった。
その頃から、ぽちぽちと仕事が入ってきて。品川にあったアニメーションでコマーシャルを作っていた会社があったんだけど……。
東映動画はもうありましたね。
東映動画は子どもアニメでしょ? あんなものをやってちゃ、どうしようもないな、なんて思っていたね(笑)。
僕は実験的なことなんてぜんぜん考えていなくて、むしろ、ミッキーマウスみたいなのを、どうやって動かすか、ということを考えていたんだが、僕にはああいう絵は描けないからね。
先生も若い頃には、ディズニーなどをご覧になっていたのでしょうか?
いや、ぜんぜん見たことがなかった。テレビばかりで。テレビのアニメで見たので、劇場ではアニメなんて全然上映していなかった。
僕が若い頃には戦争中だったから、映画とニュースばっかり。昭和16年からはもう、そればかりでね。ただ一つ、瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』だけは学校総動員で見に行ったことを覚えている。昭和17年か、18年かだったと思うけれど。
その頃の日本はまだソ連(ソビエト連邦)と仲が悪くなくて、僕はソ連の領事館のあった敦賀にいたから、町中にロシア人をよく見かけた。
真珠湾攻撃は昭和16年12月8日だよね。昭和12年7月7日に満州事変があって。そんな時勢だったね。
戦時中はマンガ映画なんてぜんぜんなくて、さかんになったのは戦後だね。戦時中にも学校なんかでは、16ミリで漫画映画を上映していたけど、題材は日本の民話が多かったね。もちろん、日本人が作った作品でね。外国のフィルムが入ってきたのは、戦後だよ。
そうですね。ディズニーの作品なども、戦争の影響でだいぶ遅れて入ってきたんですよね。
では、先生がアニメに目覚めたのは、やはり少年期と言うよりはマクラレンをご覧になったことで。
そうだね。ところが、あれをどうやって描くのかが分からなかった。あれはみんな、削って描くんだ、というものだけれども、削るにしても方法が分からないしね。ずっと考えていた。
なにしろ映画を作るにもお金もないし、まずは資金集めをしようと、マンガを描くことにしたんだけどね。
あの頃のマンガ家は、手塚君もそうだったと思うんだけど、出版社対マンガ家という構図で、発表媒体は雑誌しかないのね。だから、銀座なんかでマンガ家と編集者が集まるときも、編集者が雑誌のページ割をして、「今月は花見のマンガを描いてくれ」といったようにテーマを決めて、マンガ家がそれを描いてきて渡して、ひと月後に原稿料をもらう、というような方法でやっていた。
稼いだ原稿料は家にも持ち帰らずに飲みに行く。みんなまだ独身が多かったから、まあ、貯金や節約なんか関係無いですな。マンガ家はみんな、そんな生活の繰り返しをやっていた。
●大人マンガvs子どもマンガ
だから、単行本を出すとか、展覧会をやるなんてことは、だれも想像していなかった。
昭和28年ごろに、僕は初めて、新橋の美松書房で漫画の展覧会をやったの。考えてみたらマンガでもなかったのかも知れない。マンガは普通、紙に描くでしょう? でも、展覧会でただ紙に描いたって、本と同じじゃない。だから、立体で、キャンバスから手が出たり、というような作品を作って。
現代美術に近いものですね。
ちょうどその頃、アメリカでポップ・アートが出始めていてね。同じ時期なんだよ。僕がアメリカに行った頃には大流行していて、たとえばキャンバスを望遠鏡で覗かなくちゃ見えないような作品とか。あの頃は誰にも想像がつかないような作品を作っていた。
面白そうですね。その展覧会には、たくさんのお客さんが来たんですか?
あんまり、興味がなかったな。……マンガ家はみんな来たね。キャンバスの真ん中にはなにも描いていないのに、周りをずっとアリが這っているの。そういうのをやっていた。
そういう作品は、残っていないんですか?
みんな、捨てちゃったね。
(笑)それは、残念です。
今もう一度描け、と言われれば描けるけど、あの時の絵の下手さは出ないもんな。
その頃にはもう、手塚君とは全然会っていない。子どもマンガの世界がどういう仕組になっているのか、全然知らなかった。僕が交流していたのは、新聞や、『主婦の友』『講談倶楽部』といったような雑誌が活躍の舞台だったマンガ家ばかりだったから。
横山隆二先生のご自宅の鎌倉で開かれる会合には、手塚君も来ていて、ほかのいろいろなマンガ家の交流会にもこまめに顔を出していたね。子どもマンガ家では彼だけが一人ね。どうしてだか分からなかったけれど。
父は集まりごとが好きでしたから。
子どものマンガ家の集まりごとはあの頃、なかったのかな。
なかったんだと思います。まだ、マンガ集団だけだったと思いますね。
子どもマンガ家はみんな、ビンボったればっかりだったからね(笑)。もちろん、僕ら大人マンガ家もそうだったんだけど。金持ちは、マンガ集団の中心の連中ばっかりね。そういう時代だから。
●マンガ家からアニメーション作家へ
久里洋二 『人間動物園』 1962 より
展覧会だけじゃ駄目だ、と思って、今度は自費でマンガ集を出版したんだ。何しろ当時の出版社は、新人がいくらがんばっても載せてくれることなんてめったにないからね。100枚ぐらい描いて、編集者に渡してもなしのつぶてで、しばらくして問い合わせてみると「なくしちゃった」なんて。失礼なものだ、と思ったけど、仕方ないね。
それでは、本にしたらどうか、と思ってね。できた本を出版社に持って行ったり、新聞社に持って行ったりしてみたけれど、やっぱり、「うん」なんて言って横に放り投げるんだよね。やっぱり、本でもダメか、って(笑)。ところが、そのころ武田さんが文春のマンガ賞の審査員で、「これは良い」と言って推してくれた。それでマンガ賞をもらったの。あの頃は新人がマンガ賞を取るなんてなかったから、大騒ぎだったね。いろんな新聞に掲載されたのを覚えているけれども。今開催している、国立近代美術館の「日本近代美術の100年」展(※編集注:2012年10月16日から2013年1月14日まで開催)でもこの本が展示されているんだけれども、もうぼろぼろになっていてね。うちに行けば、あと50冊ぐらいあるのに(笑)。何にせよ、あの当時の個人出版の本っていうのは、手塚君の『新寶島』にしろ、今や貴重だよね。
……それでようやくお金が入って、アニメをやろう、ということになって。さっき話した8ミリのカメラを買ったんだけど、そのあとやっと16ミリのボレックス(Bolex)というカメラと、戦争で使っていたものだから倒れたって壊れないような頑丈な映写機を進駐軍の払い下げで買ってね。当時のお金で20万ぐらいしたかな。
結構高い出費ですよね。その16ミリカメラはどうやって手に入れたんですか?
僕がアニメーションをやろうとしていることをどこかで知ったのか、ミツワ石鹸のコマーシャルをアニメーションで作ってくれ、という人が出てきた。一度作ってみると、時代らしくって笑ったけれども、大の宣伝部長が僕の4畳半の自宅に来て、8ミリのカメラを見て、「テレビで上映するには8ミリでは駄目だ」って言ってね。「16ミリで出来ないですか?」と。「カメラがありません」というと出資してくれるというんだ。それで20万円を出してくれた。
それはよかったですね! ……それで、「ミツワ石鹸」のCMのアニメーションを撮られた。
ところがそこに、ビュフェの絵を10枚セットで20万円で買わないか、と売りに来た人がいて。「どっちにしようかな……」ってね(笑)。だけれども買わないでカメラを買った。今考えると、それで良かったよね。
それではじめに作ったのが、「Fashion」っていう作品で、フィルムを削って絵を描いて、音楽はどこかで拾ってきた、太鼓のものを使った。あの頃は著作権という概念も緩かったからね。あの作品はマクラレンの影響を受けていたね。どうしてもあの感じがやりたくて仕方なかった。難しいんだよ、フィルムをこう、削って。
生のフィルムだと、特になにか印がついているわけではないから、感覚がわからないでしょう? だから、まず絵を撮影して、フィルムのコマがわかりやすいようにして。そこから更にフィルムを削って、絵の具を乗せるんです。絵の具はインキで。ああいうものは一人でできるんだよ。時間掛けて、ゆっくりやればね。
ただ、あれは音も入っているでしょう? 音声もプリントした上に描いていくので、合わせるのが難しい。
音声は、フィルム上では映像と少しずれますでしょう?
始めの頃は、なぜ音がずれるのか、分からなかったんだけれども。
映写機の音のヘッドが、前についてるんですよね。
それも映写機を見て初めて分かったな。
それで、その後にミツワ石鹸のコマーシャルを作ったんだが、これには半年掛かったね。あの頃はのんびりしていたよね。
先方もよく待っていましたね。
たびたび連絡が入って、「できたか」「まだできていない」の繰り返しで。ミツワ石鹸のCMは、「日本第一回CM賞」というものがあって、いろいろな部門の中に、「マンガ賞」というのがあってね、僕の「ミツワ石鹸」のCMも入った。賞をもらおうなんて野心はあんまりなかったんだけど、初めてもらったものだから、嬉しかったね。
人生って、あまり願っちゃ駄目だよね。手塚君はね、すぐ賞を狙うんだよね、昔から。僕は好きなことをやっているだけなのよ。
父の場合は、少年のころから家でディズニーのアニメを見て育ったりして、始まりがディズニーでしたから、どうしても、ディズニーのようなものをやりたい、と思ったんでしょうね。でも、久里先生の作られている作品なんかを見て、また全然違うから、羨ましかったんじゃないでしょうか。
●謎の『鉄腕アトム』
手塚治虫 『ジャンピング』 1984 より
その頃はね、アニメーション自体ができたばかりだったから、全世界のアニメーション作家が、その頃にほぼ同時に皆芽生えたのね。手塚君なんかは、ディズニーのようなアメリカのアニメーションを見て、影響を受けて作ったんだろうね。でも僕は全然知らなくって。田舎っぺだったからね。アニメの世界の田舎っぺ。
だから、外からの影響をあまり受けない、日本人臭いアニメーションを作っていたわけね。それが海外で評価されたんだけれども。
アニメーションというのは、短編で、意味が分からなかったんだよね。真鍋博と、柳原良平とで「アニメーション三人の会」という会を作ったんだけれど、彼らとどこで知り合ったのか、あまり良く覚えていないんだ。
当時、「若い日本の会」というのを作るので、参加してくれないか、という手紙をもらって、御茶ノ水に集まったんだけれども、その時には真鍋博と柳原良平もいたし、羽仁進、開高健、石原慎太郎、曽野綾子、大江健三郎といった作家もいたね。
テレビ朝日のテレビ局が六本木にできたばかりで、その頃は「日本教育テレビ局」と言っていたけれども、……今は教育もへったくれもないけれどもさ。開局したはいいけれども中身が無いわけで。できたばかりだからお金もない。そこで羽仁進が、一番視聴率が良い、夕方の7時半からの30分の枠を毎日もらってきて、なにかやってくれ、と。
柳原君はサントリーのコマーシャルで作っていたけど、眞鍋君と僕には何も無かった。テレビ向けの新作なんて出来っこないんだけれども、断れなくて仕事を受けた。スタジオとカメラを借りて、2,3人の人をあつめて、長いセルを使ってアニメーションを撮ったんだけど、……まだ家にフィルムはあるけど、恥ずかしくて見せられないな。
その後、その頃は小さなしもたやみたいな店がひしめいている街だった新宿の西口の蕎麦屋の2階で打ち合わせをして、「何かやろう」ということで、じゃあ、草月アートセンターでやろうかな、ということを話してね。その頃ちょうど、「モダンジャズ三人の会」という山屋清、前田憲男、三保敬太郎の作った会があって、それじゃあ僕等は「アニメーション三人の会」でやろう、と。
それで、草月アートセンターでの活動が始まったわけですね。
草月アートセンターでやっていたのは、実験作品ばかりね。音楽もそうだし、踊りも、詩、写真、映画とあらゆる芸術でね。勅使河原宏
も映画を作っていたでしょう? 彼も16ミリで、映画を作っていたんだ。
まだ、草月がぱっとしないころに、有楽町の線路の下のところに小さな劇場があったんだが、そこで16ミリの映画がかかるので、見に行ったことがあるけれども。そこで上映していた作品も、後に有名になる監督のものばかりだった。
手塚君も草月でアニメを作らない? と言ったら「やる」といって、次の年に「しずく」という30秒の作品を作ったんだけど、なんであんな下手なの、って言ったの。「いや、いいんだ」とね。手塚君は、本当は短編映画を作る予定だったんだ。それが変わったのは、「しずく」を出した頃でね。控え室で手塚君と僕が話していたら、見知らぬおじさんがやってきてね、「手塚君の『鉄腕アトム』をアニメーションにしたコマーシャルフィルムがあるから、見て欲しいんだ。試写室も借りているから」と言われて、驚いて二人で見に行ったら、カラーの鉄腕アトムがびゅーっと飛んでるじゃない。びっくりしちゃってさ。手塚君に「著作権法違反で訴えたらいいよ」って言ったんだけれども、手塚君は「いいよ、いいよ」なんて言っていてね。それから10日ほどして手塚君から電話がかかってきて、「久里君、おれは『鉄腕アトム』でアニメを作るよ」って。「ああ、作ったら」なんて無責任に言っちゃった(笑)。
それからしばらくして、「できたから見てくれ」というんだけど、僕は、「見たくない!」って断ったよ。
そのカラーのアトムは、誰が作ったんでしょうね。謎ですね。
手塚治虫 『ジャンピング』 1984 より
それがわからないんだ。フィリピンから持ってきた、と言っていたな。誰が作ったのかは全然知らない。それでも、手塚君が頭が良かったのは、そのフィルムがきっかけで、『アトム』をフジテレビに売り込んだんだな。それで、子どもマンガがアニメーションになる、ということにみんなが気がついて、それで、今まで気力のない、下火の子どもマンガ家たちが、みんな元気になっちゃった。赤塚不二夫なんかも、「名前を変えようかな」なんて言っていたほど、困っていたんだけれども、アニメ化されてぐっと人気が出たのね。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』もテレビ化で人気が出たしね。ところが、政治風刺や大人マンガのほうはどうかというと、下火だよ。落ち目ね(笑)。
マンガ家の集まりがあると、昔は大人マンガ家がテーブルを囲んで、子どもマンガ家は壁の虫で、壁際にいたのにね。テレビアニメ化以降は逆転しちゃった。
TVアニメは大きくマンガ文化を変えたんですよね。
眞鍋君と柳原君と僕も、一度子どもマンガでTVアニメを作って見たけどね。スポンサーに見せたら、「いやぁ、良平君のはどうしてもアルコールくさい」と。
ああ。「アンクルトリス」の生みの親ですからね。
眞鍋君のキャラクターは白目だからね。「白目は死人の眼だよ」と。僕のは色っぽすぎてだめだ、と。三人とも、子どもマンガは出来なかったね(笑)。
でも、手塚君は草月で、「僕は大人アニメは絶対作らないから、久里さんは子どもアニメを作らないでくれ」って言ったんだよ。僕は自分には子どもマンガは作れるはずがない、と思っていたからさ、平気だったけれども、ところが、手塚君は約束を破ったよね。
あれはきっと、ずっと久里さんの作品を見ていて、悔しかったんでしょうね。作りたかったんだと思いますよ。
●アヌシー・広島 アニメフェスティバルのこと
手塚治虫 『おんぼろフィルム』 1985 より
手塚君の大人向けアニメでも、『おんぼろフィルム』は面白かったね。僕はアヌシー国際アニメーションフェスティバルで特別上映で初めて見たんだけど、向こうのマスコミも映画関係者も、誰も手塚君って知らないのよ。
海外旅行に行って、初めて知ったのは、『鉄腕アトム』はテレビで放映していても、作家の情報は放映していないんだよね。だから、作品がやっていても、みんな名前を知らないのね。
アヌシーでは手塚君も一緒にワカサギ料理を食べに行ったんだ。前に一緒に行った時に、山盛りのワカサギのフライを出してくれるお店があって、安くて美味しいのを彼も覚えていたんだね。そこで、「食べに行こう!」と言って一緒に行ったんだけど、その時の通訳の女性が勘違いをしてね。とても高い店に入るはめになった思い出があるよ。一人2、3,000フランぐらいしてね。僕はその時、支払いに手持ちが足りなくてね。手塚君が持ってくれたんだ。自腹でね。
その旅行の時も手塚君は、「鉄腕アトムって知ってる?」「ぼくが描いたんだよ」って街の子供達に言っていたね。手塚君は作品よりも、作家として認めて欲しい、という気持ちがあったのかな。後年は海外の作家たちと付き合うようにもなったね。
『おんぼろフィルム』は、僕も審査員を務めていた第1回の広島アニメーションフェスティバルにも出品されていた。他のみんなは分からないんだ。僕は、ああいう実験映画が大好きだから、ショックをうけたよ。ベルギーの審査委員長(編集注:ラウル・セルヴェ)とか、日本では福田繁雄とか、みんな反対しているんだ。
審査というのはよく喋ったもの勝ちでね。喋りまくらないと駄目なの。黙ってたら自分が推薦する作品も、落っことされちゃうから。
手塚治虫 『おんぼろフィルム』 1985 より
言ってみれば、談合ですからね。
「こんなの見たことない!」「絶対これがいい!」って。『おんぼろフィルム』はグランプリを取ったね。
あの時は彼は、ホテルの部屋でマンガを描いていたね。忙しいよね。飲み屋で待っていたら来るかなと思っても、いくら待っても来ないんだ。飲み屋のおじさんが、「手塚さん何時来るんですか?」というから、「こないよ」と言ったら、「色紙があるんですよ」と。「じゃ、僕が描いてあげる」って、僕がアトムを描いて、プレゼントしたよ(笑)。
子どものマンガ家の集まりごとはあの頃、なかったのかな。
なかったんだと思います。まだ、マンガ集団だけだったと思いますね。
●手塚眞、久里洋二に出会う
手塚眞 『IDEMORPHS』 1985 より
僕が、初めて久里先生にお会いしたのは、草月アートセンターでやった、初めの先生の個展ですね。小学生くらいの頃に、父に連れられて見に行ったんですが、はっきり覚えているんですよ。そこで初めて久里先生にもお会いしました。
すごく、久里先生のアニメが印象に深くて。僕は、子供の頃から父のテレビのアニメは見ていましたが、正直なところ、あまり面白い、と思ったことがなかったので(笑)。それを、父に正直に、「今日の久里洋二のアニメは面白かった」って言ったら、むっとしていましたね。
実は、僕が学生時代に初めて作ったアニメがあるんですよ。父に内緒で8ミリで撮ったものなのですが、完成後に見せたらなんて言ったかというと、「久里洋二のアニメみたいだな」なんて言って。幼い頃に見た久里先生の作品に、シンパシーを感じていたんだと思います。
僕はそれほど久里先生の作品に似ているとは思わないんだけれども、父にしてみれば「久里洋二の匂いがする」と。ぜひ、久里先生にも見ていただきたいです。
(8ミリ上映。手塚眞『IDEOMORPHS』)
よく、今まで8ミリ持っていたね。
初めて、自分の手で描いたんですよ。
うまいじゃないの!
僕、やはり久里先生の作品やマクラレンが好きだったので、商業アニメみたいなものはあまり作りたくなかったんですよね。
ぜんぜん、僕のとは違うよ。
ええ、ぜんぜん違うんですけど、父にとっては、「実験的な作品を作っている」といえば、イコール久里洋二だ、という思いがあったのかも知れませんね。
手塚眞 『IDEMORPHS』 1985 より
これは、今の時代の雰囲気にピッタリあってると思うよ! これはすごいよ。
とんでもない……。初めて作ったにしては動いていると思います。キャラクターのデザインは少し、ルネ・ラルーというフランスの作家の影響を受けていると思いますが。家で、8ミリで一コマづつ撮って。24、5歳頃に作ったんです。
これは、みんなに見せたいな。
いやいや。とても恥ずかしくて……。父が『鉄腕アトム』のような作品をテレビでやっていた反動もあるんだと思いますが、やはり、実験的なものをやってみたかったんですね。
手塚君はね、周りにいたアニメーターが止めたんじゃないかな。だから、実験的なものが作れなかったんじゃないの?
僕が自分で作るものは、実験アニメばかりですね。実は、父親もずっと、久里先生みたいな作品をやりたかったらしくて、最後に、『森の伝説』という映画を半分だけ作ったところで亡くなったんです。残り2本は構成だけ考えていて、1本はディズニーみたいなものを作りたい、と。もう一本は、マクラレンのようなものにしたい、と言っていたんですね。それは結局、叶わなかったんですけれどもね。
●最近のアニメ
久里洋二 『LOVE』 1963 より
ディズニーも最近はもう、商業的になってしまったものな。子どもの機嫌を取るのももちろん、大切だけど、もっと、大人の機嫌を取るような、新しい実験的な映画を作らなくてはね。今の短編を作っている人たちはね、まだ、アイディアが無いな。動きがやっと、という感じだな。いくら言っても聞かない、っていうのは、まあ頑固は頑固なんだけどさ。
今は、アニメーションやりたいって思っている人たちは、セル描きとか、部分的なものしか勉強していないよね。アニメってのは分業なんだよね。だから、その分業の中に入っていると、腰が無いわな。言ってみれば封筒貼りみたいなものだよ。毎日おんなじ事をやってね。それで薄給だし、アニメーターも可哀想じゃない。生活できるか、できないかという安い賃金で働かせているの。それじゃ、伸びないよね。アニメを志してきたのに、それで終わっちゃうなんてね。今の長編アニメ産業というのは、僕は蟹工船みたいだ、って思っている。こきつかわれて、自分の意志でない物を作る、というところがね。今の若いアニメーター達が、自分の考えで、腰のある、自分の好きなアニメーションでできる物をつくりたい、実験的な短編映画を作りたい、と思っているところに、パソコンでアニメを作れるようになったでしょう? それから、アニメーターが大いに増えた。昔なら、フィルムで作るにはお金がかかるし、撮影費も現像費もすごく掛かったけれども、今じゃパソコンですぐにできちゃうから、すごく増えたんだね。その中から、いいものを見つけるのは大変だけれども、優れた人も出てきているから。だけど、大変ね。
今までのアニメーション映画祭であれば、集まる作品は5、600本だったけど、今やそれが2500本ぐらいになった。2500本からグランプリ一人だったら、一流大学に受かるよりも難しい。僕の頃は、誰もいなかったんだ。海外のアニメフェスティバルにも、日本から出すのはほとんど僕ひとりだったからね。一人だから、こいつにやろう、といって賞がもらえた。いま出したら落選しちゃうよ。
そんなことはないでしょう。
『ある街角の物語』 1962 より
今は映画祭も多いけど、出品する作家もものすごく増えている。今や、家庭の主婦でも作っているからね。子どもの教育にアニメーションをやりたい、と言って、全部自分で作っちゃう。それはすごくいいことだし、コマーシャルなどの他の産業で、アニメーションを発表する場が増えていることも、すごくいいことだと思う。
素晴らしい短編アニメは、隠してちゃ駄目だよ。手塚プロダクションにもたくさんアニメーターがいるんでしょ? みんな作ったらいいんだよ。
今、手塚プロダクションでは、先ほどの『森の伝説』の残りの半分を作っているところなんです。ただ、ディズニー編を作っているので、ちょっと手間がかかっていますが、最後のマクラレン風はすごく作るのを楽しみにしているんです。
がんばってちょうだいよ。
今の人は、アニメーションと言うと、テレビのアニメとか、商業アニメばかりを連想しますけれども、やっぱり、久里先生がずっとやってきた、実験アニメや短編アニメのほうが、本当のアニメーションだ、という感じがします。
『めもりい』 1964 より
それにしても、さっきの作品は良かったね。息子がこんな作品を作ったの見たら、それはお父さんもヤキモチ焼いちゃうだろうね。手塚君にはこういう才能は無いもの。ディズニーの才能しかないからね。
そんなことはないと思いますが……。父が久里先生を意識して作った実験アニメに、『めもりい』という作品があるんですよ。僕は好きなんですけれども、評判は悪かったですね。
『ジャンピング』ってのがあったでしょう? あれを見たときに僕は手塚君に「これは君が作ったんじゃないんでしょう?」といったんだけれど、「いや、僕が作ったんだ」って言ったね。ああいう発想は手塚君からは出てこないと思うけれども。
でも、父は世界中の短編アニメを随分沢山見ていましたね。そうして、見るとすぐに影響を受けていました。
『めもりい』 1964 より
でも、『おんぼろフィルム』は名作だな。『ジャンピング』は、びっくりしたけど、彼らしくない、と思っている。『ある街角の物語』はあまり好きじゃなかったけど、シネスコで出したのは手塚君が初めだものね。
昔ね、手塚君から、漫画の本をもらったことがあるけれども、『フィルムが生きている』というの。「よく読んでください」っていうの。小次郎が僕で、武蔵が手塚君っていうのね。ちくしょう、マンガでやられちまった、と思って(笑)。まだうちに置いてあるよ。
あの作品の発表の後、手塚君は『ある街角の物語』を作ったんだね。シネスコでは僕も、『LOVE』っていう作品を作ったけれども、あれはいちどもシネスコでかかっていないんだ。
ちょうど今日(編集注:2012年12月4日)ニューヨークの近代美術館で『LOVE』が上映されるんだったかな。60年たってもまだ動いているね。あと、『人間動物園』も未だにいろいろなところで上映されているな。僕の中での傑作といったら、あの2本だけだな。
そんな事はないですよ……。やはり父は、久里先生にはずっとライバル意識を持っていたんでしょうね。自分に持っていないものを持っている人として。やはり、先生の存在が励みになって、父もアニメをずっとやっていくという気持ちがあったのだと思います。
久里先生も今でも現役で、ずっとアニメを続けられていらっしゃいますね。
いや、今はもうあまり作っていないよ。でも、今はフィルムで何か、撮影がしたいな。
フィルムはもう無くなってしまうんですよね。8ミリのフィルムを作るのが終わってしまって、現像のサービスも来年9月で終わりなんですよね。もう、いま頑張って作らないと。個人的に現像はできるんですが、そうすると音が入れられないんで、なんとか来年の9月までに何本か、作りたいんですが。僕ももう一度、8ミリでアニメが作りたいな、と思っていて。昨日も、コマ撮りができる8ミリカメラを探して新宿の中古カメラ屋を随分探したんですけれども、もうぼろぼろになった1台を扱っているお店を1軒だけ見つけて、それを一万円で売ってくれる、というので買ってきて、それで頑張って、今年から来年に掛けて、やろうかな、と思っています。やっぱり、手で描くアニメが一番面白いですよね。
そうだね。フィルムの面白さね。編集の面白さだよね。フィルムを切ったり貼ったりして、絵が動くっていうのは、こういうもんだよな、って思うんだよね。
しかし手塚君は、早く亡くなっちゃったね。いま生きていれば、文化勲章もらったろうにな。残念なことをしちゃった。手塚君は欲張り過ぎたんだよ。その欲張りが、自分の死まで呼び寄せちゃった。もっとのんびりしていればよかったろうに、と思うけれどもね。年を取ったら人間、無欲になるものなんだけど。
父は、そうなれなかったのかも知れませんね。
(2012年12月4日 高田馬場にて)
(C)YOJI KURI