1947年頃
インフレはどんどんひどくなった。ヤミ商人は札ビラを切って大尽生活をつづけ、飲食店はおもてむきは休業して裏口営業をつづけ、児童福祉法が公布されても浮浪児の数はいっこうに減らなかった。
浮浪児——それは悲惨とか憐憫(れんびん)の情などを通り越して、グロテスクで、奇妙な小妖怪のように見えた。終戦後二年もすると、かれらにはかれらの生活が密着して、図太い生活能力が生まれたからかもしれない。駅前食堂なんかでものを食べていると、半分くらいは、この浮浪児に取られてしまった。客の食べている前へつっ立って、いつまでも辛抱強くじっと待っているのだ。少しのはじらいも、物欲しげなポーズもなく、むしろ戦争の被害も受けずにぬけぬけと満足なものを食べているわれわれを非難しているように見えた。上野の地下道の中の浮浪児のたまり場では、毎日のようにDDTを連中にぶっかける係員が顔をしかめてうろついていた。
児童漫画家は恥ずかしかった。子供のために描いているなどとうそぶいてはいるが、かれらに漫画を見せてもはたして喜ぶだろうか。結局、手をこまぬいてなにもしてやれないのが落ちなのだ。