1945年
──あのころさかんにマンガを描いて、トイレに貼っていたそうですが。
工場で動員中のね。あれは戦争末期です。結局、マンガなんか描くチャンスがないものですから、工場の昼休みの時間に……昼休みが一時間半ぐらいあるんです。その間に、みんな昼寝しているんだけれども、ぼくはせっせとマンガを描いていた。四コマものですね。ぼくは、中学時代に「ヒゲオヤジ」ができまして、それからずーっと「ヒゲオヤジ」専門に描いていた。工場でも「ヒゲオヤジ」を描いていた。それで、「ヒゲオヤジ」の銃後日記、そういうやつを結局、だれかに見せなきゃダメなんだけれども、ぼくのまわりのやつは、ぼくがマンガを描くことを知っているものだから、あまり喜ばないわけ。やっぱり工場の工員に見せるのが一番いい。工員というのは、そのころは動員されてきた連中もいたし、中国の人や朝鮮の人もいたわけです。そういう人たちが全部見てくれれば、マンガにまったくの素人の人たちの批評が聞けると思って、それでトイレの大きいほうの、金隠しの真上に貼っておいたわけ。しゃがむと、目線が、ちょうどそこへくる。
そしたら、だれか知らんけれども、みんなトイレで拭く紙に使っちゃう。しようがないから、かたーい紙にしたんです。初めは、やわらかい紙でやったところ、みんななくなっちゃうものだから、こっちは泣きの涙で、ケント紙の一番厚めのやつで描いた。今度は、なくならなくはなったけど、手を拭くんですよ、それで……。
——「ヒゲオヤジ」の戦中日記というのは……。
今ありますよ。一枚か二枚残っている。
——ずいぶん、続けられたんですね。
半年ぐらい続けた。みんな四コマもの。毎日。あのころは、いいアイデアのものがあったと思うんだけれども、あまり覚えてないですね。
その前に、やっぱり「ヒゲオヤジ」の四コマものをしばらく、これは工場ではなしに学校で作って、回覧して見せたことがある。これは残っています。本当に初期のもので、まだ関西弁だった。
「そんなことしたらあけへんがな」というような。
今の「ヒゲオヤジ」は江戸っ子だけどね。そのころのは全部国民服を着ている。