1943-45年頃
ぼくの中学校は大阪でも名門で、厳格さでも群を抜いていた。太平洋戦争も酣(たけなわ)のころ、ぼくは強制的に予科練を受けさせられた。ぼくは七つボタンにちっとも憧れたわけではないので、視力のために合格しなかったのはもっけの幸いであったが、途端に教官の一声で、強制修練所に入れられてしまった。こうなると年貢のおさめ時で、漫画なんぞ描いていようものなら、それこそ非国民、反動扱いで拷問にでもあいそうな空気であった。
修練所のシゴキは凄かった。畑仕事や教練はまあ我慢できるとしても、我慢ならないのはほとんど絶食に近いくらいの食事の減量だった。目はおちくぼみ、腕は鳥の肢(あし)のようになり、ものを言う元気もなくなってきた。教官だけは、どういうわけか丸々と肥え太り、元気旺盛(おうせい)だったので、隠匿品があるのだろうという噂がたち、とうとう教官室を襲撃しようかという計画まで企てた。しかし、これは実現しなかった。
ぼくは、こんな所から逃げだそうと思った。しかし、修練所の周囲には鉄条網がはりめぐらされ、付近の地面は蟻が歩いても足跡がつくぐらいで、とても脱走はできない。
「だが、おれは脱走してみせる」
と、ぼくは言った。
「ばか、日本刀で斬(き)られるぞ」
「このままいたって、どうせ餓死するだけだ」
ある夜、みんなが寝静まるのを待って、ぼくは修練所の窓から脱(ぬ)け出した。ひんやりとした、おぼろ月夜だった。ぼくは、あぶら汗を流しながら鉄条網をくぐり、足跡を消した。草をかき分けて本道へ出ると、やっとシャバへ戻った安心感がこみあげてきた。電車に乗って、ほうほうの体(てい)でうちまでたどりついた。
ふらりと玄関をはいると、出てきた母は、腰を抜かさんばかりに驚いた。幽霊だと思ったそうである。
「腹がへった……」
と、一言いうと、ぼくはへなへなとすわりこんでしまった。母は、家中から食べものという食べものを出してきて、ぼくに食わせてくれた。ただもうありがたかった。食料といえばとぼしい配給だけの時代だ。おそらく、家中の食べものを洗いざらい食べてしまったに相違ない。
腹ができてホッと落ち着くと、また不安になってきた。母は、修練所へ帰ったほうがよいという。しかたなく、また電車に乗って、草深い鉄条網の中へ帰っていった。なに食わぬ顔で寝てしまったので、誰にも気づかれずに済んだ。