勤労動員に駆り出される

1945年頃【16才】

敗戦を目前にした日本。16歳の手塚治虫は大阪・淀川の軍需工場に勤労動員され、空襲警報でもかまわず漫画を描き続けていました。

手塚治虫エッセイ集より

敗戦の年、ぼくは淀川の軍需工場にいた。

軍需工場といっても、格納庫の屋根や壁などに使う、スレートをつくる町工場である。

マンガ「紙の砦」原画より

マンガ「紙の砦」原画より

敗北につぐ敗北のニュースは、情報局がひたかくしに隠そうとしても、ぼくらの耳には隙間(すきま)風のように吹きこんできて、もうやけっぱち気分になっていた。

 

ぼくは寮の中や、トロッコの横で、スパイのように隠れながら漫画を描いた。

 

「手塚! 空襲警報だ!」

と、どなられようが、油脂焼夷弾(ゆししょういだん)が雨あられと降ろうが、もう平気だった。

マンガ「紙の砦」原画より

マンガ「紙の砦」原画より

三月空襲で、東京が焼け野原になってしまった直後、大阪にも最悪の日が来た。

B29の編隊が淀川に沿って上ってき、ありったけ爆弾を落とすと、また淀川沿いに帰っていった。淀川べりのわが工場は、敵機が帰る途中、余りの爆弾を捨てていく、そのとばっちりを受けた。

 

空は一面夜のような暗さで、あちこちの火の手が、ダンテの地獄篇(へん)のようなすさまじさを呈していた。

きな臭く黒い雨が降りしきり、淀川堤は死体や瓦礫(がれき)の山で、ことに大橋の下は、避難した人々の上へ直撃弾が落ちて、折り重なって黒焦げになっていた。

 

牛が一頭、半分埋まって、ビフテキのような匂いをただよわせていた。

ぼくは、もう沢山だと思った。

もう結構。これは、この世の現象じゃない。

作り話だ。漫画かも知れない。

おれは、その漫画のその他大勢のひとりにちがいない。

それなら、早いとこ終わりになってもらいたい。

 

友人の家はあらかた焼けてしまった。

ぼくが描きためた漫画の原稿を、ごっそり貸してあった友人の家も、きれいさっぱり焼けてしまった。

焼け跡に舞い上がった灰の中に、何百枚かの原稿の丹精こめて描いたヒゲオヤジやアセチレン・ランプ達が昇天していった。

講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集 1』より
(初出:1969年毎日新聞社刊『ぼくはマンガ家』)

「人生観を変えた軍事工場での空爆体験」

収録日:1987/6/2
収録場所:阿波銀行本店

 

「手塚治虫の戦争体験」

収録日:1988/10/31
収録場所:豊中市立第三中学校