1935-41年頃
——手塚さんは、兵隊になりたいとか、そういう気持ちはなかったですか。
なかった。初めからなかった。
体が弱かった。ぼくは必ず、兵隊ごっこになると敵になったの。弱いやつはみんな敵になった。西部劇ごっこするとインディアンになるし。ぼくは、しまいにいやになっちゃって……。そう、いじめられっ子だったんですよ。最後にぼくは、専門班か従軍記者になるといった。これは味方でもいいわけよ、弱くてもいいわけで。専門班だと、おまえ何かやらなきゃいかん、写真撮るか文章を書けと。それはない。でも、写真のかわりに一所懸命スケッチをやる、ノートに。で、たとえば向こうのほうに敵兵が走っているのを一所懸命描く。それを、戦争ごっこが終わると、
「これから、私が決死的な覚悟で敵陣に突入して撮ってきたフィルムをお見せします」
で、こうやって紙芝居みたいに見せるわけ(笑)。
それで結局、結構みんな喜んでくれて、しまいには、「手塚がいなければ、われわれの戦功は語れん」というような感じになった(笑)。
(中略)
うちの学校というのは、おもしろいことに、東組と西組とふたつしかなかった、一学年に。四十八人ずついて、男二十四人、女二十四人の共学なんです。うちの学校は初めから共学なんです。
東組というのはどういうのかというと、いわゆる腕白、番長、それから頭はあまりよくないけれども、はなったらしのいじめっ子とか、戦争ごっこが大好きなやつとか、体操が百点のやつとか、そんなやつばかり集まっていた。西組というのは、おとなしくて、お坊ちゃんで、どっちかというと手先が器用で、女好きがして、女っぽくて……。ぼくはそっちだった(笑)。
ときどき、東組と西組との生徒の交換をやる。東組でも、ちょっとおとなしそうなやつが西組に入ってきて、西組の番長みたいなのが、東組にいく。ときどきそれが、全然あわない時がある。とんでもない腕白が猫かぶって入ってきて、西組で暴れだす。それにいじめられましてね。いじめられてこわい。それでもってそれが同じ方向に電車で帰る。しょうがないからぼくは、そいつが先に帰るのを見すまして、必ず二、三台電車を遅らせて帰る。そいつがまた悪いやつで、二、三駅向こうで待っている……。
(中略)
──マンガを描くということは、そういった意味でいうと、戦争中の手塚さんにとっては救いだったんじゃないですか。生きている証拠を残しているといったような。
むろん、そうですね。だってぼくは他に何もできなかったから。昆虫採集とマンガがぼくの喜びのすべてでしたね。