「鉄腕アトム」の生みの親と育ての親、天馬午太郎とお茶の水博志の青春時代を描いた「アトム ザ・ビギニング」、「どろろ」のそれぞれのキャラクターのバックボーンを見つめ直し、百鬼丸とのダブル主人公の作品としてとらえ直した作品「どろろと百鬼丸伝」。
現在好評連載中の手塚治虫作品のリメイクをそれぞれ手掛ける作者のお二人に、普段作品を描いていくにあたってどのように「手塚治虫」を読み解いているのか、お聞きしました。
カサハラテツロー
1993年、『メカキッド大作戦』でデビュー。代表作に、『RIDEBACK―ライドバック―』『フルメタル・パニック! 0―zero―』。
2015年から「アトム ザ・ビギニング」(マンガ配信サイト「コミプレ」にて連載中)を手掛ける。今年2月、同作が第100回を迎えた。
士貴智志(しきさとし)
愛知県出身。代表作に「神・風」「光と水のダフネ」「XBLADE」「進撃の巨人-Before the fall-」など。
現在、チャンピオンRED(秋田書店)にて「どろろと百鬼丸伝」(原作・手塚治虫)を連載中。
なお、今回の特集はダ・ヴィンチWEBとの連動企画!
より、お二人の作品に迫った記事もぜひご覧ください。
――おふたりの作品にはそれぞれ、「生命とは?」とか、「戦争や争いのむなしさ」のような手塚作品に共通して流れるテーマが受け継がれています。原作となる作品を読む以外に、ほかの手塚作品から、同じテーマにつながるヒントを得ることなどはありましたか?
カサハラ:そういったテーマで語るとしたら、私は『アドルフに告ぐ』がまず思い浮かびますね。あとはそうだな、エッセイのような文章で残されているものなどは読んだりしました。
手塚先生は戦争や差別のような重大な問題を、俯瞰したり、近寄ったり、いろいろな角度から見ていますよね。『紙の砦』のようなご自身の体験から描こうとされているものもあったり。
差別も戦争も大きな問題でありながら、人間の性としてとらえているようにも思います。味方だった人々がお互いに殺しあうようなお話も描かれている。
それでも手塚先生は人間性奪うような物語を描いても、最終的に人間性を取り戻す主人公を描かれています。そういう物語に私は共感しますね。
『鉄の旋律』っていう短編がありますが、あれはまさにそういう話で、結婚相手の家族に裏切られて、両腕を失った主人公が追い詰められてどんどん人間性を失いかけるんだけど、
最後の最後で人間性を取り戻す。主人公が憎んでいる人間を、次々と殺していった義腕が、「一番にくい奴は誰だ」ってなった時に、「おれだ」となる物語で。人間性を失うことを絶対許さないんです。そういうところが、たくさんのマンガ家の中でもずっと残って語り継がれるところだと思っています。
士貴:『どろろ』に照らし合わせて、というと、僕はそうした手塚作品の普遍的なテーマよりは、もう少し、個人の信条に焦点を当てた、局地的なお話の方を参考にしているかもしれません。先ほどのダ・ヴィンチWEBさまのインタビューでも作品名を出しましたが、『きりひと讃歌』のような、「差別はいけない」というような大きなテーマに対して、差別された人々が寄り添って、力強く生きていくようなところに影響を受けていると思います。「差別はいけない」とか「戦争はいけない」というようなテーマに対して、個人の感情がどうなっているのか、に焦点を当てたものに共感します。
――『どろろと百鬼丸伝』では、どろろや百鬼丸以外にも、いろいろなキャラクターの心の内が描かれているように思います。
士貴:そうですね、特に、戦の中で生き延びている子供たちって、非力ではあると思うんですよ。でも、目の前のさしせまった危機に立ち向かうしたたかさや強さっていうのは持っていると思うので、そこをもっと、ほかの手塚作品から感じたものや、僕自身が考えたり、感じ取ったりした感情などは、もっと『どろろと百鬼丸伝』にもっとフィードバックさせていきたいです。
――「手塚リメイクをかくぞ!」という気持ちになるように何か創作時に工夫されているようなことはありますか?
カサハラ:うーん......特にないですね。お話を考えるときはすべての情報をシャットアウトして、なるべくSNSとかも見ないようにして、わーっと入り込んで描いちゃうので、ルーティンもなにもないんですけれども、ネームにオッケーをもらって、下描きやペン入れの段階になると、意外といろんなものを聴きながらやったりしますね。
最近はオーディブルっていう、本を読み上げてくれるサービスがあって、そういうのを聴いています。そういうので、科学とかをテーマにした本の朗読を相当聞きましたね。
ただ、まったく意味は解んないんですよ。ちゃんと日本語としては解るのに意味は分からない...! でも、科学マンガ描いてるなー、っていう気持ちにはなれる。
――ロボットの話でなくてもいいのでしょうか?
カサハラ:そうですね。宇宙論とか、進化論とか。脳科学とかですね。特に宇宙論はたまんないですよ。何言ってるのかが全然わからなくて(笑い)。こんな概念の世界があるんだなあ、となるぐらいなのですが、宇宙のビッグバンが、70億年前ぐらいから膨張のスピードが加速していて、そのエネルギーをダークエネルギーっていうそうですけど、それは人間には全く観測できないそうなんです。
宇宙にはあと、ダークマターっていうものがあって、それも人間には全く観測できない。人間に観測できるのは全宇宙の5%ぐらいしかない、というような......まったく理解はできないのですが、壮大な気持にはなれますね。「差別なんかやめような」みたいな気持ちにはなれます。
士貴:私も、ネームを描くときはもうほんとに、無音なんですよ。それも深夜などの、家族やご近所が寝静まった後にやります。決して家族が嫌い、というわけではないです(笑)。気配がすると、気持ちがそっちに行ってしまうのが、苦手で。
カサハラ:マンガ家の中にはファミレスでネームを描く人がいるじゃないですか。私もあれは分からないんです。
士貴:私もあれはできません。一回やってみようと思ったんですが、4時間いて何も進まなかったです。
――絵を描かれるときはどうですか?
士貴:映画を流したりもしますけど、「どろろ」だからと言って岡本喜八作品を流すとかそういう事でもなくて。内容を完全に把握しているものか、日本語以外の言語のもので、そっちに気を取られないような作品を選んで流しています。
カサハラ:BGVとしてオススメの作品なんかはあるんですか?
士貴:話をまるごと把握している、という意味では、岡本喜八作品か、黒沢明作品になります。
「侍」や「斬る」は年間を通じて一日1度か2度は観てる、というぐらい。内容というよりは、展開のテンポや役者のセリフが心地よいとか、自分の好みに合っている作品ですね。
洋画なら「ファーゴ」や「ダイハード」も大好きなのですが、「ダイハード」はつい画面を見てしまうので......。
――岡本喜八や黒沢明は、「どろろ」が描かれた時代に活躍した映画監督たちですね。
カサハラ:どの作品も「どろろ」にあっている作品ですね。戦闘シーンがあったり、ほのぼのした家族のシーンがあったりして。
士貴:確かに、ふと画面を見ると、「着物の帯ってこんなふうなんだ」と思うことはありますね。
カサハラ:ありますよね。袂の払い方とか、座っているときの所作とか、大事ですよね。
――あえて原作とは別の手塚作品のキャラクターを作中に出して、うまくいったな、というキャラクターはいますか? または、出したいな、と思ったことはありますか?
カサハラ:実は、監修の手塚眞さんからはその点は厳しくチェックを受けていて、「できるだけしないほうがいい」と言われがちなんですよ。
そのチェックをかいくぐってこっそり出しちゃった! というキャラクターはちょっとだけ、あったりします。
提出する設定画ではなるべく角度などを変えて、見えないようにしたりして......。「これならどうでしょう!」と出してみて、OKをもらえたら「よし!」ってなる、みたいな。
――原作者サイドとしては、なるべく作家のオリジナリティを出してほしい、と。
カサハラ:そこは強くおっしゃってくれていますね。でも、結局放っておいても自分の世界は描いてしまうものなので、そんな、安易に描いてぶっ壊したくないんですよね。できるだけ「鉄腕アトム」や手塚原作というフィールドは保ちつつ、そのなかで私の世界を描いていく、という......そんな変なこだわりのゲームを展開しているような感じです。
――手塚ファンへのサービスでやられているものだと思っていました。
カサハラ:その点は誰も喜んでくれないだろうな、と思っています。読者にも気づいてもらえないようなものもあります。
たとえば、よく「コバルトは出さないんですか?」って聞かれるんですが、じつはもう出してるんですよ。「バルト(CO-84バルト)」というロボットはコバルトなんです。
でも、回答としては「そうですねえ。ちょっと出てたりするんですけど、解りにくいかなあ」としか答えられない意地悪さ。気づいてもらえなくてもいいんですよ。
――マルスなんかは、「ジェッターマルス」がモチーフですよね。
カサハラ:2015年に2巻が出る、ってなればもう、絶対に彼を出したかったですね。「時は2015年」ですよ。神様が挑戦してるに違いない、ぐらいの気持ちで(笑)。
――士貴先生の『どろろと百鬼丸伝』には、そういった「『どろろ』に登場するキャラクター以外のキャラクターは出さないように」というような監修はあったのでしょうか?
士貴:手塚先生の作品って、スターシステムで造形は一緒だけど、作品によっては役どころが違うというキャラクターがたくさんいるじゃないですか。たとえば「どろろ」では悪役で出ているけれども、ほかの作品ではいい人だったり。そうした背景からほかの作品で演じていた役の性格をちょっとだけ足したり、といったようなことはしています。手塚作品のマニアックなファンが読んでも、「ほかの作品も読み込んでいるな」と思ってもらえるようなものは多少意識して付け加えています。
そうすることで、キャラクターの性格に深みが出たり、悪役の中にもそうならざるを得ない理由などが想像できたりと、お話にふくらみが出るように思います。
他の作品で演じたキャラクターの性格で、上手くあてはまるものが出てくると、パズルがうまくはまったような、「どろろと百鬼丸伝」にとってはこれが正解だったのか、というような気持ちになります。
カサハラ:『どろろ』には全く関係ないけど、有名な手塚キャラクターを出したい、みたいな衝動はないんですか? スターシステムのサブキャラとかじゃなくて......。
士貴:......この展開にこのキャラクターを出せたらいいなあ、と思ったことはあります。作者なんだけど、読者としての面白さとして。
たとえば......、手塚先生ってご自身で作品に登場するじゃないですか。手塚先生が出てきたら面白いんじゃないか、とか。
――リメイクではなかなかやりにくいかもしれないですね。
カサハラ:実は僕はこっそり出していて。主人公のお茶の水博志とランの兄妹って、じつは博志にランの帽子と眼鏡を付けると、ほぼ先生になる、という......。
勿論ディテルは違うんですけど、正面からみたらそっくり、っていうのを、コミックス発売時のペーパーで一度、ネタ晴らししたことがあるんです。実は。
だから、博志は時折、手塚先生が言いそうな無茶なことを言いだすんです。たとえばA106に対しても、普段は人間らしくしろとあれだけ言っておきながら、自分が彼をコントロールできなくなった途端に「そんなのは駄目だ!」って全否定してみたりとか。マルスの音声や通信システムを奪ったことに対して泣きながら抗議したり、常人からみたらオカシイな、変人だな、っていうふうになることがありますが、そういう時に手塚先生に登場してもらっている。私の中ではそういうイメージです。
――あくまでカサハラ先生が作品などから読み解いた手塚治虫像として。
カサハラ:描いている私にさえ、「この人はなぜこんなに怒っているんだろう?」と思っているんです。怒ったことで何かを解決しているわけでもないんですよね。それでも、中にはそういうシーンがよい、という読者の方もいますね。
これもだから、監修者にはばれないように......(笑)。「これは手塚先生だ」なんておくびにも出さないわけですから。眞さんなら笑って許してくれるんじゃないか、と思ってはいます。
――士貴先生には、手塚先生以外にも作品内に出したい、と思ったキャラクターはいますか?
士貴:実は、......火の鳥を出したいな、と思ったことはあります。
どろろたちが置かれている境遇って、個人ではどうにもならないような理不尽な状況じゃないですか。どこかで救いがほしい、と思っているんですよ。何か、超越した力が救ってくれないかな、と思ったときに、手塚作品でその力を持っているのはやっぱり、火の鳥なんじゃないか、と。火の鳥が出せたらなあ......と。
――神様の登場、というわけですね。
士貴:作品自体のちゃぶ台を返しちゃうぐらいのことになりますが、私の中では彼らを救ってほしい、という思いが常にあって。作者というよりも、個人的な願望ですよね。たとえば今現実にも紛争や災害で理不尽な目に合っている人たちの所にも来てほしいですよ、火の鳥。
カサハラ:私の中での『火の鳥』の捉え方と全く違って、驚いています。あ、そうなんだ、と思って。
火の鳥って、登場すると必ず誰かが死ぬじゃないですか。もう、不幸を運んでくる存在ぐらいに感じていたので。
士貴:確かに実際に火の鳥が来ると、救ってもらったとしても悲しい展開になりそうだな、とは思うんですけれども...。
カサハラ:『火の鳥』という作品は、手塚先生が日本史を描こうとした作品だと思っているんです。日本の世界創世神話って独特じゃないですか。世界の多くの地域で太陽神がだいたい一番偉いですよね。その最高神が日本では女神である天照大神なわけです。日食を描く岩戸隠れも、ほかの文明なら戦争が起きるような展開が、ウズメの舞で解決しちゃう。
つまり日本って、「母性」が中心にある国なんだな、と私は思っていて、その視点で手塚マンガを振り返ってみると、手塚マンガの中にも「母性」がいろいろな形で描かれていますよね。
火の鳥、って宇宙全体をつかさどる最高神でしょ。それがああいう、めちゃくちゃ女性的な姿で出てくる......。
――優しいけど、厳しい感じもあって。
カサハラ:決して、優しくて平和なだけのキャラじゃないんですよね。焼き尽くすし、滅ぼす。めちゃくちゃ自分勝手。
そういう最高神を語り部に、日本史を「猿田彦」を追うことによって描くという試みは、天才にしか思いつかないですよ。思いついたところで描くのは無理ですよ。
士貴:『火の鳥』って、何十年もの間(編注――黎明編が初めて描かれた1954年から太陽編が完結した1988年まで、間に中断や路線変更はあるものの34年間描き続けられた)で描かれている内容がすべて一貫していて、しかも幅広いテーマで描かれているので、単純に漫画家としてあの作品を描き続けてこられたのは、超人的だな、と思います。
手塚先生の中でもバランスはあって、その時々でいろいろなものに影響を受けて描かれた作品もあれば、普遍的なテーマで描かれている作品もあって。本当にたった一人の作家がこんなに多面的にいろいろな作品を描けるのか、というのはプロになってから改めて驚きます。
カサハラ:私は『火の鳥』も全編一貫したテーマで貫かれている、とも思えないんですよ。その点は士貴先生の見方とは違いますね。実に面白い。
「火の鳥」って1編ずつはそれほど長くないですよね。単行本1巻から、多くても3巻程度で収まってしまう。今のマンガと比べたら短いんですよ。それぞれの編を読み比べてみると、私はなんか、一貫性がない感じがする。なので、ものすごく好きな編と、これはちょっとな、という編があります。
何しろ大好きなのは「鳳凰編」ですね。あれはクリエイターの物語で、同じモノづくりに携わるものとしてはたまらないです。
仏師我王が、孤独なクリエイターとして苦しみぬいて挑んだ瓦造りの勝負に負けて、生まれつきの隻腕だったのが残った腕まで切り落とされちゃって、山奥で自然の美しさに感動して、涙を流すシーンなんか、表現方法からストーリーまで最高です。我王は自然を見て感動しているわけじゃないんです。一体化して、感じて涙を流している。
涙を流した大ゴマで、顔のアップなんかを描けば「泣ける」仕掛けは出来るし、それは承知の上で、あの絵ですよ。
わたしは奇跡の一本だと思っています。
士貴:私が一番印象に残っているのは、「ヤマト」編ですね。絶体絶命の中でも救いを最後描いてくれるところがあると思うんです。確かに、最後にはみんな死んでしまうんだけれども、人間は最後にはしたたかな強さを発揮するんだ、というのが『火の鳥』のテーマだと思っていたので。
殉死者として埋められたオグナとカジカの二人は、権力に抗えずに最後は死んでしまうのですが、『火の鳥』に力をもらって、最後の瞬間まで人間らしく生きていこうとする。そういうところが『どろろ』のテーマにも通じるものがあると思っています。
――もし今、手塚作品の中からベストを選ぶとしたら?
カサハラ:いまはもう、『火の鳥』鳳凰編が最強! 構成から、表現から、何から何までが完璧ですね。
『火の鳥』のリメイクは難しいとお聞きしましたが、もし、リメイクしてもいいよ、と言われたら、『火の鳥2772』が描きたいです。あの作品も手塚エッセンスが満載で。アニメーションとしての出来栄えはいま一つで、アメリカで試写会をやったらブーイングを浴びたなどという伝説があるところも含めて、チャーミングです。得意満面で見せた手塚先生の顔と、そのブーイングを目の当たりにして戸惑っている顔がそれぞれ目に浮かぶようで。
士貴:僕は、子どもにも孫にも、自分の作品を読んでほしい、と思っていて。そういう意味では手塚作品では『ブラック・ジャック』がそれにあたるのではないか、と思います。僕の親も読んでいるし、僕自身も読んでいて、子どもたちも読んでいる。三世代、四世代にもわたって読んでもらえる作品って、ベストだと思います。
了
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