1994年1月に太田出版より刊行された、手塚るみ子著『オサムシに伝えて』。
父・手塚治虫に伝えたい思いを綴ったはじめての著書が、この度、立東舎文庫から、『定本 オサムシに伝えて』としてリリースされることになりました。
虫ん坊では刊行を記念し、現在はプランニングプロデューサーとしても活躍する著者に、改めて当時を振り返りながら話を聞きました。
立東舎文庫『定本 オサムシに伝えて』
著者:手塚るみ子
発売:2017年2月20日
定価:(本体900円+税)
仕様:A6正寸/416ページ
ISBN 9784845629886
[Amazon.co.jp]
定本 オサムシ
に伝えて (立東舎文庫)
『定本 オサムシに伝えて』刊行を記念して、ご応募いただいた方の中から2名様に著者サイン本をプレゼントします。
応募方法:
1.件名に、『定本 オサムシに伝えて』プレゼント係
2.本文に、お名前・当選通知用メールアドレス
以上を明記の上、メールにてご応募ください。
応募メールアドレス:tezukaosamu-net-guide@tezuka.co.jp
〆切:2017年2月28日(火) 23:59まで
当選された方には折り返しメールにてご連絡致します。
ご応募心からお待ちしています!
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もともと『オサムシに伝えて』は、1994年1月に刊行された初のエッセイ本でしたね。
手塚 るみ子 :
(以下、手塚)
父が1989年の2月に亡くなってから、思慕が強まると同時に、じゃあ、自分は何をしたら良いんだろうという混乱の時期があったんですね。
その混乱が一旦着地できたのが、1993年に開催された『私のアトム展~100人のMY FAVORITE ATOM』だったんです。手塚プロはじめ様々な方々にご協力いただいた上で出来上がったイベントではあるんですけど、父親の作品を初めて自分のプロデュースで形にできたというので、気持ち的に治まったところがありました。
そのタイミングで、最初、太田出版の担当編集の方が「お父さんのことを本にしてみませんか」と声を掛けてくださって。丁度、タイミングがあったという感じなのかな。じゃあ、今度は自分の言葉で父の思い出を形にしようかなという気持ちになれました。
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『定本 オサムシに伝えて』として新たにリリースされることになった経緯を教えてください。
手塚 :
昨年、手塚治虫マンガ家デビュー70周年を記念して、『ぼくはマンガ家』、『手塚治虫小説集成』、『手塚治虫映画エッセイ集成』の3冊が立東舎から刊行されたんですけど、そのシリーズを企画編集されたライターでアンソロジストの濱田高志さんからお声掛けいただきました。
2003年に文庫化された時から時間も経っているし、丁度、濱田さんが次に『手塚治虫シナリオ集成1970-1980』を刊行されることも決まっていたので、それじゃあ一緒に出しましょう、と立東舎側も乗り気になってくださいました。
当初は、カタログハウスから1995年に出版された『こころにアトム』と両方まとめて1冊にしようというお話もあったんですけど、文庫だと相当ボリュームのあるものになってしまい読みにくいだろうというので、今回は『オサムシに伝えて』のみで行くことになりました。
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刊行から24年経ったいま改めて読み返してみて、どのように感じましたか。
手塚 :
感想をひとことでいうと、ただもうひどいなって(笑)。特に前半は文章も拙いし、会話調でくどい(笑)。この当時はまだ人に読んでもらうことを考えられるようなスキルやテクニックもなかったですし、ストレートに書きすぎてしまっていて、いろんな意味でこの時代の私はなんて痛い娘なんだろうってつくづく思いました。
本当は、スクラップ&ビルドで全部書きなおしたかったんですが、あのときの自分も自分なんだからと、若干修正を加えたリフォームどまりになりました(笑)。
この本は、ひどいことばかりして心配させたし迷惑も掛けた父への自分の懺悔記録でもあるんですね。父に「ごめんなさい」と伝えたい気持ちから、『オサムシに伝えて』というタイトルにしました。『オサムシに伝えて』という感情がそのまま本という形になっています。
懺悔記録をあけすけに書いているわけなので、恥ずかしいし痛いのはあたりまえですよね。
あくまで自分視点の描写なんだけれども、最後の父との病室の風景であったり、病院から家まで父を運んでいく光景だったり、それは他の誰にも見えていなかったところかもしれない。
そう思うとこの本はやっぱり大切な家族の記録として残したいですし、手塚治虫のひとつの記録として手に取って読んでもらえたらいいなと思います。
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表紙も一新して、とてもかわいらしい小さいころのるみ子さんが描かれています。今回の表紙に関しては、はじめから具体的なイメージがあったのでしょうか。
手塚 :
イラストは桐木憲一さんにお願いしました。昨年の手塚治虫のトリビュートイベント・キチムシ’16で桐木さんが『マコとルミとチイ』のルミをフィーチャーしたポストカードを作っていたんですけど、それがとてもかわいくて、このルミを表紙にするのもいいよねって桐木さんと話をしていたんです。
濱田さんもキチムシでご覧になられていて、あれはかわいかったから、あの雰囲気でいけるんだったらいいですねとおっしゃってくださり、表紙用には同じテイストで新しいイラストを描き下ろしてもらいました。
立東舎の方も気に入ってくださって、いろいろ展開したいとおっしゃっているので、ポストカードとか、LINEスタンプになったらよいかも知れないですね。
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今回、お父様とも交流のあった有名文壇バー「クラブ数寄屋橋」の園田静香さんとの対談も収録されていますね。
手塚 :
父をはじめ、昔からあらゆるマンガ家や文豪といわれる有名な先生方がよく通っていたクラブなんですが、私も過去に2回ほど足を運んだことがあって、静香ママから“手塚先生はこうだった”という話をたくさん聞かせていただいたんです。その話が非常に興味深かったこともあり、今回の文庫化にあたって、私の方からママに提案をして、快く引き受けていただけました。お店にはまだ父のボトルも残っているんですよ。
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編集者の網の目をくぐりながら、気分転換にちょっと脱け出して……という先生の姿が浮かぶようですね。
手塚 :
父と静香ママはすごく気が合って、お互い何時間でも話し続けられて楽しくて仕方がなかったという話をされていたんですが、仕事場や業界関係者といる時の手塚治虫ではなく、また家庭でのお父さんとしてでもない、そんな息抜きの時間があったんだというのを知ることができて嬉しかったですね。
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娘という立場からみた家族としての父・手塚治虫はどのようなお父さんだったのでしょうか。
手塚 :
父が亡くなるまでは、家族想いの普通のお父さんとしての顔しかみたことがなかったんです。家ではだらしない格好もしていましたし、夜中にインスタントラーメンを作ったり、B級ものが好きだったり、つまらないイタズラをしたりしていましたから。もちろん尊敬はしていたし、大好きではあったんですけど、特別視はしていなかったですね。
でも、いま考えると、あれだけ忙しくて時間のなかった人が、マンガ家・アニメ作家・医学博士・コメンテーター・講演者といういろいろな肩書きがある上に、お父さんに夫に息子まで務めるという、普通の役者でもできないようなことをやってのけていたというのは、“手塚治虫”という人間のすごいところだと思います。
あとは、好奇心が強くて新しいもの好きなので、話題のものにはすぐ飛びついていましたね。父の場合は仕事のために関心があるものはどんどんインプットしていましたけど、手塚治虫だからなんでもすごいものばっかり知っているだろうというわけではなくて、TVドラマも観るし、家族とコミュニケーションするなかで子どもたちから学校で起きたことを聞いたり、日常の他愛のない話にも耳を傾けていました。庶民的な部分も持ち合わせているからこそ、マンガにアウトプットできていたんじゃないかと思います。
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『マコとルミとチイ』のなかにも家族のあるあるエピソードがたくさん登場していましたね。
手塚 :
そういえば、最初に『オサムシに伝えて』を出したときに、中学生の女の子からお手紙をいただいたことがあるんですが、反抗期特有の悩みを抱えて苦しんでいたときに、お父さんがこの本をプレゼントしてくれたそうなんです。読んでみたら、共感する部分がすごくあって、まるで自分の気持ちを書かれている気がした、と。そんな感想をもらえて嬉しかったですね。
決してすごいマンガ家の家庭だからこうだったという話ではなく、どこの家にもある娘と父親の微笑ましい話でもあるし、世の中にはこんなふうに娘を想っているお父さんもいるし、こういうふうに父を求めている娘もいるよっていう。まあ、ここまでひどい娘もなかなかいないとは思うけれども(笑)。
家族に対して心を配ってきたひとりの人間なんだというのを知ってもらえると、手塚治虫がより身近に感じられると思います。
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現在まで、プランニングプロデューサーとしていろんな企画を手掛けられて来たわけですが、ご自身の活動を振り返ってどう思われますか。
手塚 :
まずは、手塚治虫を神棚から下ろさなくてはいけないと気づいたことが大きかったです。
マンガというのは大衆文化で、大衆が読んで楽しんでこそのもののはずが、手塚の場合はマンガの神さまと呼ばれて、神格化され、神棚に奉り上げられてしまったりする。
もちろん、著作物は悪用されないように守ることも必要なんだけれど、いつまでも現役でいたいと父も言っていたように、大事に囲い込んだり、手の届かない棚の上に置いてしまうんじゃなくて、誰もが触れられるように解放しなくてはいけないんじゃないかと思いました。
実際に本屋さんでも高いところに置いてあって、そうじゃなく、自然と手が伸びる目の高さの棚を空けてくれるにはどうしたらいいだろうと思っていた時に、『私のアトム展~100人のMY FAVORITE ATOM』をやって、手応えを得られたんですね。そうか、手塚治虫に影響を受けて活躍している人たちの言葉や表現の力を借りることで、手塚作品がどんなに楽しいもので面白いものかが伝わればいいんじゃないかと。
そこから、“トリビュート”と“コラボレーション”というアイディアに行きつきました。ピコ太郎の『PPAP』じゃないけど、別々のものが組み合わさることで、全く新しいものが作られるというハイブリットの面白さがあるわけですよね。掛け合わせの妙によって、原点である手塚作品に対して興味や関心を持ってもらえたら……。
“神棚から下ろす”ことと“ハイブリットを生みだして原点に対して興味を持たせる”というやり方は、アトム展から20数年間、全く、変わっていないですね。
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『私のアトム展~100人のMY FAVORITE ATOM』は、原点でもありすごく大きな意味を持つイベントだったんですね。
手塚 :
当時はいまほど“トリビュート”だとか“コラボレーション”というものが世の中に浸透していなくて、そこに日本を代表する漫画家・手塚治虫の、国民的なキャラクターのアトムが初めてそれをやったということで、やっぱり影響力は大きかったと思います。
あらゆるジャンルの人間が思い思いに” 手塚治虫のここが好きだ”という気持ちをオープンにしてくれたおかげで、手塚治虫の可能性も拡がったんですよね。
ただ、同じことを繰り返していても凡庸になってしまうし、飽きられてしまうから、方法や手段は、常に新しくしていかないといけないし、ハイブリットの掛け合わせをいかに面白くしていくかというのは考えていかないといけないですよね。多少実験的でも、やりたいことや目標がブレなければおそらく大丈夫です。失敗したら、崩せばいいし。
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いまは、結果をすぐ求めたがる風潮がありますよね。本編に出てくる、兄・眞さんからるみ子さんに送られた「本当にやりたいことは、十年ぐらいかかるものなんだよ」というセリフが印象的でした。
手塚 :
あの言葉を掛けてもらったのは、兄が映画『白痴』を10年以上掛かけて完成させたこともあったからですね。
焦りやプレッシャーで悩んでいる私に対して、本当にやりたいことというのは、10年経とうが20年経とうが、やり遂げたいという気持ちを失わないでいられるものであって、いまはそのタイミングじゃないかも知れないけど、もしかしたら、5年後10年後に流れがくるかも知れない。そう簡単ではないけれど、いつかはチャンスがあるということを言いたかったんじゃないかな。
今の自分にはまだまだ足りないものがあって、10年間かけてそれを培っていく場合もあれば、瞬発力で出来てしまうこと、時代の波にうまく乗れる場合もありますけど、一番大切なのは、そこに”想い”があるかですよね。そのときに出来ないからって諦めることだったら、それは本当にやりたいことではなくて、10年経っても大好きな想いが消えないものこそが本物なんじゃないのかなと思います。