今月の虫ん坊では、ちょっとダークな手塚作品をご紹介。通称“黒手塚”と呼ばれる大人向けの作品から、『奇子』をご紹介します。
生い立ちからして複雑な美少女・奇子の波瀾万丈の半生を描ききった作品で、密かなファンも多いとか。
ガッツリ大人向けですが、手塚治虫作品共通のテーマはしっかり根底に流れていますので、「コワイかも!?」と避けていた方もぜひ一度は挑戦してみてください!
(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集『奇子』あとがき より抜粋)
「奇子」は一年半にわたってビッグコミックに連載した作品で、じつは、この物語はもっと長編の予定だったのです。
それが、急に途中で終わったのは、やむを得ぬ事情によるもので、話がつまったとかいやになったわけではありません。したがって物語は大筋のほんのプロローグですが、これはこれなりにまとめてみて満足しています。
最初はドストエフスキイの「カラマゾフの兄弟」のような、一家系のさまざまな人間模様を戦後史の中でかきたかったのです。戦後史をまともに出したのではあまりに羅列的になりますから、その狂言まわしに天外一族をおいたのでした。戦前的な色彩をもつ素封家に、容赦なく戦後思想が混入し、その混乱と葛藤の中に、日本人のバイタリティのようなものをえがき出したいと思いました。(後略)
戦地から5年ぶりに復員した天外仁朗は、新しい家族・奇子(あやこ)の存在に驚く。どうやら奇子は、父親・作右衛門が長男の嫁に産ませた子供らしい。大地主の家長である作右衛門は、財力と権力に物を言わせ、その尽きない欲望を満たしていたのだ。いや、作右衛門だけではなく、天外家は代々このような汚れた過去を持つ一族だった。そして仁朗自身もGHQの秘密組織に属し、左翼活動家の殺人事件に関わることになる。そしてその殺人事件がきっかけとなり、奇子にある悲劇が訪れるのだが…
地方の封建社会が持つ非人間性は、時に小説・映画などにテーマとして取り上げられる事があります。そして『奇子』は、手塚治虫が漫画という舞台でそのテーマに取り組んだ作品です。戦後の混乱した日本で、封建的な一族が権力の衰退と共に自らの悪行のために崩壊していく様子を、得意の「複数のドラマが同時進行し、交差していく」構成で、力強く描き切っています。特に、近親相姦をはじめとする、大胆な「性」の表現には、手塚治虫の漫画における表現者としての野心を感じ取る事ができます。
また、それぞれのキャラクターの描き分けも見事で、天外一族の個性的な面々が、それぞれの役割を果たしながらこの物語を紡いでいます。そして、忌むべき存在である奇子が、大人達の勝手な都合に翻弄されながらも少しずつ成長し、やがて一人の人間として独立していく物語からは、『人間昆虫記』や『一輝まんだら』などの作品と同じように、女性の生きる強さを描こうという意図も見えます。