■かつて、手塚治虫ファンクラブ主催で毎年開催されていたファン大会が、手塚治虫デビュー60周年を記念して、今年の12月に復活することになりました。
  往年のファンなら当時の様子をご存知の方もいらっしゃると思いますが、現在の若いファンにとってはいったいどんなイベントだったのか、興味がつきないところかと思います。そこで、今月の虫ん坊では、1979年に開催された第1回のファン大会について、初代ファンクラブ会長をつとめていた、作家の二階堂黎人さんにお話を伺いました。


↑『火の鳥2772』の試写会の後に。ファンクラブ会員と共に。中央が二階堂黎人。ファンクラブ事務局で撮影。


●ファンクラブの発足について
――手塚先生のファンクラブの発足は1979年ということですが。
二階堂:もともと、今の手塚プロ資料室長の森晴路さんが東京で主宰していた、手塚治虫ファンクラブがあり、それが前身になります。そのほかにも京都とか九州とか、東北などに支部があり、それが79年に、映画『火の鳥2772』の製作をきっかけに、手塚プロダクションがファンクラブを主宰することになり、森さん主催の東京のファンクラブを中心に各地方の支部が統合されて、今のファンクラブになりました。


――二階堂さんとファンクラブのつながりはいつごろからになるのでしょうか。
二階堂:僕が手塚マンガを集めるようになったのは、小学校5年生ぐらいで、その頃、「少年チャンピオン」かなにかの少年漫画雑誌の柱の部分に、「手塚先生にファンレターを送りましょう」という告知があって。それで、手塚漫画の単行本が新しく出るたびに買って読んでは、月に一度か二度、ファンレターを出すようになりました。すると、一年に3、4回の割合で手塚先生からお返事が来るんです。
  その中に「私のファンクラブを森さんという人がやっているから、入ってみたらどうか」って書いてあったので、すぐ連絡を取ってみました。すると、ファンクラブから「『虫の知らせ』という会誌を発行しているというお知らせが届いたので、さっそく入会しました。そのうちに、森さんから、「月に一度ファン同士であつまって、〈メトロポリス〉という集会を新宿でやっているから、来てみないか」という誘いがかかったんです。

↑第1回手塚治虫ファン大会の後、楽屋裏で手塚先生と共に。左から二番目が二階堂黎人。

――〈メトロポリス〉には、どんな人たちが集まっていたんですか?
二階堂:場所は新宿で、改札口の外で集合し、近くの喫茶店に移動して話をするんです。森さんはまだ大学生でした。大学生から社会人ぐらいがメインで、上は45歳ぐらいの人もいたのかな。僕は中学1年か2年生のときから参加するようになって、一番年下でした。いつも、20人近くの人が顔を見せました。


  当時は、手塚先生がどんな作品を出しているか、ちゃんとしたリストもないし、もちろん全集なんかもまだないから、新刊書店で売っている本しか手に入らないし、僕には先生の作品の全貌が分からなかったんですよ。新刊の先生のプロフィール欄なんかに『新宝島』でデビューした、とか、『ロストワールド』など初期作品のこととかが少し書いてあるんだけど、そういう本はもう出ていないし、昭和20年代なんて遠い昔のように思えたわけです。 そういう状況で、手塚ワールドの本当に一端しか分からない僕が、〈メトロポリス〉に出て行くと、手塚マニアの人たちがいっぱいいて、いろいろと親切に教えてくれるんです。どの人も、僕が何を質問しても嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうな顔をして、詳しく答えてくれました。あれは、本当にありがたかったですね。
  主宰の森さんは手塚マンガ全般をよく知っているし、他にも、手塚先生の少女マンガに詳しい人とか、仕事柄、手塚治虫と映画の関係について語らせたら造詣がある人とか、それこそ今のアニメ・オタクの走りのような、虫プロやタツノコプロが始まったころからずっとアニメを追いかけている映像派の人もいました。
  そんな人たちが、ありとあらゆることを丁寧に教えてくれるので、こっちはもうびっくりしちゃって、吸収することがありすぎて困るほどでした。あんな嬉しかったことはありません。

↑<浅草COMIC CON’81>が浅草公会堂で開かれ、手塚先生も参加。二階堂黎人は、ファンクラブの売り子をした。


――二階堂さんがファンクラブ会長になったきっかけは何だったんですか?
二階堂:79年に手塚プロでちゃんとファンクラブを主宰しよう、というお話になる少し前に、森さんが手塚プロに就職してしまって忙しくなり、ファンクラブの運営が出来なくなってきたわけです。それで、森さんが仲間たちに「誰か会長職を代わって」と頼んだんですよ。そのとき、ちょうど僕が大学1年生で、一番年齢が若く、平日も時間も取れるから、「暇なお前がやれよ」っていうことになったんです(笑)。


  なぜ時間が必要かというと、当時は会誌を作るのに、マネージャーの松谷さん(現・手塚プロ社長)のところに月に一回行って、手塚先生の今後の予定や、何の本が出るのか、といった情報を聞く必要があったんですね。もちろん、会誌を作って、これを発送するような手間もかかるわけです。会誌はオフセット印刷で、文章は写植でしたから、印刷会社へ行くことも何度も必要でした。
  それで、普通の社会人より、大学生の方が自由がきくということで、僕が会長と決まったんです。別に、見識の深さとか人望じゃあありません(笑)。

 ファンクラブが手塚プロ主宰になったときにも、名目上、そのまま会長になってくれ、というお話で、結局、会長を5年間つとめました。実際問題として、手塚プロがファンクラブを主宰するといっても、森さんとその仲間たちがやっていたようなサイン会の仕切りや、ファンの集会や、会誌作りのノウハウを持っていなかったので、発足当時は、今までの私設ファンクラブのメンバーが引き継いだわけです。中心は僕と、副会長の高松直丘さんで、あとは常時、手伝ってくれる人が2、3人いました。もちろん、声をかければ、集まってくれる人はたくさんいたわけです。
  高松さんは僕より年上で、早稲田の大学生でした。高田馬場にある手塚プロに近いので、その面でも好都合でした。高松さんは、手塚先生の少女マンガの収集家として有名な人でしたから、知識の面でも行動力でも、本当に頼れる方でした。
  それから、手塚先生のお父さんの部屋にいつも集まっていた女性の熱心なファンが数人いて、〈お父さんファンクラブ〉と呼ばれていました。彼女たちも虫プロ時代からの筋金入りのファンでしたので、様々な面で、僕らを助けてくれました。
  また、ファンクラブの活動が始まってすぐに、大都社の編集長だった篠田修一さんが会誌の編集を担当してくださることになりました。篠田さんは、あの『手塚治虫のすべて』などの本を作った方です。そのおかげで、僕らは会誌用の記事を書けば良いだけになったので、負担が軽くなり、とても助かりました。実は、篠田さんも手塚マニアでしたから、古い作品を掘り出してきて、会誌に復刻を載せてくれたわけです。