エピソード

悟り煩悩の炎四門出遊ササジャータカ

悟り(第三部 第13章「ヤタラの物語 2」より)


苦行を捨てたシッダルタは、村の娘スジャータの命を救うために飛び込んだ世界で
宇宙と生命の姿を目の当たりにするという素晴らしい体験を得る。

ピッパラの樹の下で、その体験を動物たちにむちゅうで話して聞かせ
やがて深い瞑想に入っていくのだった。
そんなシッダルタの目の前に現れたのが
コーサラ国の巨人兵士ヤタラだった。
どれいとして迫害され両親を殺され、
そんな過酷な運命ゆえに
凶悪で不死身の巨人と化したヤタラ。
同じくどれいの母を持つルリ王子だけには心を許し、
彼に仕える事になるが、
冷徹なルリ王子は、ヤタラが慕ってたその実母を
死のふちに追いやってしまう。
彼女の死をまのあたりにし、
何もかもに絶望し
自暴自棄になったヤタラは
死にたい思いで川をさまよう。

そして流れ着いたのが、
シッダルタの前だったのだ。
そんな彼にシッダルタは
「全ての存在には意味があり、あらゆるものとつながりをもっている」と教え諭すのだった。
自分にも生きている意味があるのだと、その言葉に強くうたれたヤタラは感謝して去って行く。
ヤタラが去った後、
さきほどの言葉は
自分が自分に教えた言葉だと
気づくシッダルタ…、

今まさに、その悟りがひらかれようとしていた。

【解説】
あらゆる仏伝においてクライマックスとも言えるのが、シッダルタが悟りを開きブッダとして覚醒するシーンでしょう。

ピッパラの樹(菩提樹)の下で瞑想にふけるシッダルタのもとに、悪魔たちがその心をかき乱そうと姿形を変えながら執拗に攻撃してきますが、それにたえぬいたシッダルタが、見事成道をなしたといわれています。
いわゆる「降魔成道」です。

さて、手塚版「ブッダ」では、それがどのように表現されているのでしょうか?
意外にも「ブッダ」では、そのスペクタクルあふれるシーンはあまり真正面からは描かれていません。オリジナルのキャラクター、巨人ヤタラのエピソードの最後でどちらかというとあっさりと、悟りに気づく描写になっています。
ここにも、壮大な宗教的な物語よりも、ブッダの人間ドラマを描きたいとする手塚治虫の意図が現れているのかもしれません。

それよりも手塚治虫が重点的に描こうとしているのはブッダの悟りの鍵となる、全ての生命がつながっているイメージです。
「ブッダ」全編中に度々登場するそのイメージからは「この世に存在するあらゆる生命はつながっていて、そのどれもが、かけがえのない存在である」という、この作品の核となるメッセージが見えてきます。
またそれは「火の鳥」などにも代表される他の手塚マンガの数々の作品の中をも、滔々と流れる哲学なのかもしれません。

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煩悩の炎(第五部 第9章 「象頭山の教え」より)


むかし、ある栄えた町があった。
大勢の旅人がそのあかりに引き寄せられてその町にやってくる。
盛り場は昼のように明るく、着飾った女は男達にぜいたくな食事をねだり
男達は一円でも多くもうけるために、かなりあくどい商売をしているのだった。
その町はずれに、
まずしく、みすぼらしい
水売りの親子が
住んでいた。
父親はつつましい暮らしに満足していたが
息子はぜいたくな生活に憧れて家を出て行く。
料理屋の下働きからはじめ頭角を表した少年は、
やがて店をまかされるまでになる。
そして、がめつくもうけ続けていくのだった。
ある時、
不思議な仙人からもらった
ひょうたんを覗いてみると、
そこには煩悩の炎に
焼かれる自分の姿があった。
それでも少年は
がめつくあくどい商売を続ける。
そして、それは
ライバル料理屋との
何十万本ものローソクを使った
過激な宣伝合戦へと
エスカレートしていくのだった。

ひょうたんの中で
少年のからだが
煩悩の炎ですっかり
包まれた時、、、

宣伝用のローソクが元で
町中が大火事になる。

そして、
町はすっかり焼け野原に
なってしまったのだった。
命からがら、
町外れの家にもどった少年、、、
ひょうたんを通して
父親をのぞいてみると、、、
父親の姿には、
青い炎の
ひとかけらもなかった。

【解説】
ブッダを陥れようとする拝火教のカッサパ兄弟、その信者たちの前で、ブッダは燃え盛る人間の欲望、煩悩(ぼんのう)についての話を始めます。
これは、その教えのためのたとえ話のひとつです。

煩悩とは人を悩ませ、苦しみを生み出す心の動きのこと。仏教では、その諸悪の根源は、むさぼりや欲の貪(とん)、怒りや憎悪の瞋(じん)おろかさの痴(ち)、この三毒であると分析しています。煩悩の数が108もあるというのは有名な話ですね。

いずれにしても、欲を捨てて、煩悩の火を断ち切る、それこそが、苦しみから脱却し、心静かに過ごせる方法だとブッダは説いています。

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四門出遊(第二部 第6章「四門出遊」より)


  生まれてすぐに母を亡くし、
体も弱かったシッダルタは、
物思いにふけって
ばかりいる子供だった。

とくに死について
思い悩んでばかりいた。
農耕祭では土から出た虫を鳥がついばみ、その鳥もあっという間に他の鳥のえじきになり…
狩りでうさぎの命を奪ったともだちが、今度は自分の命を事故で落とし…、
そして、タッタによって城から連れ出され、見せてもらった世界には
病気と老いと死があふれていたのだった。
思い悩むシッダルタの前に謎のバラモンの老人が現れる。
そして、シッダルタを砦の廃墟へといざなうのだった。
東の門にはよぼよぼの年寄りがいた。
南の門にはひどい病人。
西の門には死人…。
そして残された北の門には、
老人自身が待っていた。
シッダルタはそれが「出家せよ」というナゾかけだと気付く。
老人はシッダルタに告げる。
この事をきっかけに、やがて若きシッダルタは、出家を決意していくのだった。

【解説】
仏陀の出家の動機として、よく知られている四門出遊(しもんしゅつゆう)のエピソードです。

仏典によると、恵まれた生活に不信を感じる王子シッダルタが城の外へと散策に出た時のこと、東の門から出ると醜い老人、別の日に南の門から出ると今度は病人、また西の門から出ると死人を運ぶ葬列に、それぞれ出会って強いショックを受けます。
そして最後に北の門から出た時に、出家の修行僧に出会い、その清らかなたたずまいに胸を打たれ、出家を決意したことになっています。

手塚「ブッダ」ではご覧のとおり謎の老人(じつはブラフマン-神の化身)が廃墟の砦を使って、シッダルタの行くべき道を教えたことになっていますね。

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ササジャータカ(第一部 第1章「バラモン」、第七部 第3章「アジャセ王の微笑」より)


年老いた修行僧が砂漠で行き倒れる。
老人は飢え、渇き、そして疲れで、もう一歩も動くことが出来なかった。
そこへ現れた三匹の動物たち、老人を救う為に、それぞれ食べ物を探しに行く。
熊は川で魚を捕ってくる。
狐は土の下から木の根や、
木の実を掘り出してくる。
しかし、非力な兎は、
何も見つける事が出来ずに
みんなの前に戻ってくるのだった。
熊や狐に責められる兎であったが、老人に火をおこしてくれと頼む。
そして「自分を食べてくれ」と言い残し、
自ら火の中に飛び込んでいくのだった。
弟子たちにこの説話を
語って聞かせるアシタ師。

難解なこの説話の真意を
悟るものこそが
偉大な覚者であり、
その人はやがて
現れるだろうと告げる。
そして幾年月が過ぎ、アシタ師の予言の通りに、
この説話の意味を、分かりやすい言葉で民衆に伝えるブッダの姿があった。

【解説】
仏典には「ジャータカ」とよばれる、お釈迦様が過去世においてこんな姿で生まれこんな善行をしたという、様々な前世の物語があります。このエピソードの原典となっているのもその一つ「ササジャータカ」と言われる説話で、老人を救うために身を投げ出す兎は、仏陀の前世であるとされています。

また、この物語は(西遊記のモデルとして)有名な玄奘三蔵の「大唐西域記」を経て日本に伝わり、平安時代に「今昔物語」の一話となります。
猿(「ブッダ」では熊)、狐、兎は共に老人を助けようとしますが、老人は実は、三匹の信心を確かめに来た帝釈天でした。献身的な兎の行動に感動した帝釈天は、兎を讃え月にその姿を刻みます。と、つまり「月の兎」の由来話となっている訳ですね。

いずれにしても、この説話の意図する「慈悲の心」が、手塚治虫が「ブッダ」を通して描こうとした重要なテーマであるのは間違いないようで、壮大な物語の最初と最後にくり返し登場し、象徴的に語られています。

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