1-宝塚での少年時代
手塚治虫は、昭和のはじめに大阪で生まれて、 緑豊かな宝塚という町に育ちました。

<宝塚>
そこは山や森に囲まれ、遊園地やたのしい歌劇も見ることのできる、すてきなところです。 オサムの家のとなりには宝塚歌劇団のスターが暮らしていました。 男性の役もすべて女性が演じる宝塚のステージは、やがて『リボンの騎士』のサファイヤ姫のイメージにつながります。

<いじめられていた少年時代>
髪の毛がいつもあっちこっちにはねていたので——そう、アトムの頭のように——それを「ガジャボイ頭」とはやし立てられ、メガネをかけていることもからかいの標的にされました。
オサムの家族は、みんな映画が大好き。

<家族だけの「マンガ映画大会」>
お父さんが買ってきてくれたのは、ミッキーマウスやポパイの短編マンガ映画でした。
言葉がわからなくても、動きだけで笑わせてくれるそれらのキャラクターたちは、オサムを虜にしました。

<たくさんのマンガに囲まれて>
当時人気のあったマンガには田川水泡の『のらくろ』や横山隆一の『フクちゃん』、坂本牙城の『タンクタンクロー』などがありました。

<マンガが大好きな妹>
妹のかいたマンガはプロになってからの手塚マンガにも大きな影響を与えています。
たとえば有名なヒョウタンツギというキャラクターは妹のノートにあった落書きが元になっていますし、サファイヤ姫の衣装も妹のマンガがヒントになっています。

<マンガで人気者>
先生たちの似顔絵は子供たちだけではなく、先生たち自身も喜ばせました。
「きみは絵がうまい!マンガ家になれ」なんて具合です。
有名なヒゲ親父のキャラクターも、友だちのお父さんの似顔絵から生まれました。

オサムは、友だちから生き物や宇宙の本を借りて読むと、科学に興味が出てきました。

<手作りの図鑑や雑誌>
近所の山や公園に出かけていって昆虫採集をして、昆虫の生態を熱心に観察しました。
その結果として作り上げたのが『昆蟲の世界』という図鑑です。
これは写真と見まごうほど精密に昆虫の姿が描かれています。
オサムはできるだけほんものに近い色を塗ろうとして、自分の指を切って、その血で赤い色を塗ろうとしたんですよ。

大きな戦争がおこりました。第二次世界大戦です。

<第二次世界大戦>
日本、ドイツ、イタリアと、アメリカ、フランス、イギリス、ソ連、中国などの連合軍との間で戦われました。1939年のドイツによりポーランド侵攻がきっかけで開始され、41年に日本軍によるハワイの真珠湾奇襲でアメリカも参戦し、一挙に世界的規模の大戦争となってしまいました。世界中に悲惨な傷跡を長く残すことになるこの戦争は、43年にイタリアが降伏し、45年、5月にドイツが、8月に日本が原爆投下などもあって無条件降伏して、ようやく終わりました。

<兵隊になる訓練>
戦時下の日本では働き盛りの男たちが、みんな兵隊になってしまったので、武器や兵器を作る人がいなくなりました。
そこでオサムのような学生たちも工場で働かなければならなくなったのです。

<たくさんの人の死>
数多くの手塚作品がこの時の体験をイメージの源としています。
マンガ家としてデビューしたばかりのころの作品である『来るべき世界』などで二大国家により最終戦争が語られ、その戦禍の中で人々が絶望的に倒れて行く、などという展開からしてすでに、戦争の悲惨さと、それを繰り返し続ける人類への怒りに彩られています。
オサムは腕がはれ上がる病気にかかってしまいました。そしてそれを治してくれたお医者さんを見て、とても立派な仕事だなあと思いました。

<医者の学校>
大阪大学付属医学専門部です。
在学中に人気マンガ家となり、日本で一番忙しい男となってしまったオサムですが、それでもかれは医学の勉強を続け、1951年に大学を卒業し、翌年には医師国家試験に合格。
そして1961年、33歳のとき、奈良県立医科大学において『タニシの精虫の研究』という論文により医学博士となります。

<子供向けの新聞>
少国民新聞のことです。この新聞はのちに毎日小学生新聞となりました。このときに連載したのが『マアちゃんの日記帳』です。

大阪で人気の出た手塚治虫はたくさん出版社のある東京へ出ました。
手塚治虫は売れっ子になり、ねる時間もないほどいそがしくなりました。

<アニメ会社設立>
1961年にこの会社が設立された当時は『手塚治虫プロダクション動画部』という名称でしたが、すぐに『虫プロダクション』に名前を変えました。
その第一回作品として発表されたのは『ある街角の物語』と『鉄腕アトム 第一回アトム誕生』です。


<キャラクターグッズ>
アトムの絵がついたお弁当箱や運動靴、レオが描かれたジョーロなど、オモチャだけではなくありとあらゆる生活雑貨にも、手塚治虫のキャラクターが彩られました。
こういうキャラクターグッズがビジネスとして成立したのも日本では手塚治虫の作品が初めてでした。

世の中にマンガがあふれると、頭のかたい大人たちは「マンガなんて、くだらない!」と怒りました。

<仕事部屋>
・マンガ机の上
マンガ机の上には、以下のような道具が並んでいます。ペン、墨汁用筆、羽ぼうき、カラス口コンパス、消しゴム、三角定規、直線定規、雲形定規、墨汁、証券用インク(油性なので水ににじまない)、ポスターカラー(ホワイト)、色鉛筆、ホワイト筆、彩色筆、水彩絵の具、電気スタンド(蛍光灯にかぎる)、下書き用鉛筆(Bか2B)、そして紙(ケント紙)・・・とはいえ、手塚治虫がいちばんマンガを描くときに好んだのは机ではなく、床に寝っ転がって描くことでした。なにしろ子ども時はずっと、そんな姿勢でマンガを描いていたので、そのときの癖が大人になってからも消えなかったのです。で、机に座っていてもペン先と自分の顔が寝っ転がっているときと同じ距離になるように、机の下に台を置いて、机の高さを普通よりも高くしていました。

・動画机
机の部分に下から光で照らせるように曇りガラスの窓があります。 製作中のフィルムをチェックするときなど、こういう机がたいへん便利なのです。

・本棚
さまざまな資料が並んでいます。外国の風景の写真集や歌舞伎に関する資料、建築デザイン関係の本もあれば、動物図鑑や植物図鑑もあります。また、同業者から寄贈された本や自作品も並んでいます。美術書やデザイン関係の本では、洋書などもたくさんそろっています。数百冊もの資料がびっしりと棚に並んでいますが、手塚治虫はどの棚にあるどの本の何ページ目に、どんな写真が載っているのかをきちんと把握していた、という超人的な伝説が残っています。

・ステレオ
手塚治虫はマンガを執筆中はいつもクラシックの名曲を大音量でかけていました。 いまでは人間の可聴領域を超えたバイオリンなどの高周波の調べは、人間の右脳を刺激し、活発な創作活動を助けると知られています。 クラシック音楽を浴びるように聴いていたことが、手塚治虫の尽きることのないアイデアの源になっていたのかもしれませんね。

<大人向けの作品>
マンガだけではなくアニメーション作品でも『千夜一夜物語』や『クレオパトラ』など大人向けの作品を発表しました。
どれもマンガやアニメというジャンル自体の幅を広げようという試みです。

<商業主義に妥協しない作品>
手塚治虫はマンガというものをさらに奥の深い、魅力的なものにしたいと考えました。若いマンガ家が「売れるマンガをかかなければ」と自分の創造性を押さえつけてしまう現状を憂えて、商業主義に妥協しない純粋な創造の場として治虫自身が発行人となって創刊したのが「COM」という雑誌でした。治虫はその雑誌に『火の鳥』の新作を発表しながら多くの優れた新人達を発掘しました。

テレビの『鉄腕アトム』は、世界中で放送されました。アメリカでは『アストロボーイ』というタイトルで人気が出ました。

<アストロボーイ>
アメリカでオンエアされた『アトム』を見たディズニーは「とてもすばらしい。これからの子供たちは宇宙に目を向けなきゃね」と微笑み、映画監督のスタンリー・キューブリックは『2001年宇宙の旅』の美術スタッフに手塚治虫を起用したいと考えました(手塚自身のスケジュールの関係で実現はしませんでしたが——)。
また、『体内の冒険』(吸血魔団)を見た映画人が、物語のアイデアを借用して『ミクロの決死圏』というSF映画を作ったのは有名な話です。それくらいアトムはアメリカの人たちも夢中にさせたのでした。

<日本のマンガやアニメーション>
日本から発信されるアニメは今では『ジャパニメーション』と呼ばれて、アメリカでもヨーロッパでも大変高い評価と信頼を得ています。
欧米ではアニメといえば幼児向けか芸術作品という分類しかありませんでした。
けれど日本から発信されてくるアニメーションは大人も堪能できるストーリーを持ったエンターテインメントであり、それはつまり手塚治虫のマンガで育った日本の作家たちによって、はじめて開拓されたジャンルだと言えるでしょう。
手塚治虫は、あまりに働きすぎたので、身体を悪くしました。しかし、病院のベッドの上でも、仕事を続けました。