解説:
(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集 別巻1 『手塚治虫エッセイ集1』より)
…(前略)…
もう国のために一身を捧げる意欲を全く失ったので、それ以来、ほとんど自宅へひき籠って漫画を描いていた。たまに工場へ顔を出しても原料の攪拌機のうしろへ隠れていて、配給のパンを一週間分食べてしまったり、蛮唐が持ってきたタバコをふかしたりする。蛮唐というのは国粋主義の番長のようなもので、誰かが女学生と話をしたり、世界文学全集など読んだり、ズボンに寝押しの条でもつけていようものなら、プラットフォームなどへひっぱり出してひどいリンチを加えるのだ。—当然ぼくなど漫画を描いていればなぐり倒されて、帽子を電車に轢断されるところなのだが、どういうわけか、ぼくの漫画がお気に召して、なかなか可愛がってくれるのである。ぼくのほうも時折美人画などを描いてかれに進呈すると、かれは相好を崩して喜び、長生きしろよ、などと言ってくれた。そのかれが、あるとき、せっかく描いた漫画なのだから、もっと堂々と発表しろ、とぼくに勧めた。
…(後略)…
読みどころ:
学校一の乱暴者にしてヤクザの大親分の息子・バンカラこと明石はひどい暴君。学生は誰一人として頭が上がりません。試合を控えたラグビー部を集めて目の前に真剣を突き立て、「負けたら承知せんぞ、腹切れよ」などとすごむ始末。軟弱な生徒を見つけたら服をひっぺがすなどのひどい仕打ちを加えます。
腕力で皆の上に君臨していたゴッドファーザーの息子ですが、マンガが大好き。「ペンは剣よりも強し」などと言いますが、まさにその至言どおり、ペンの力は偉大なもので、乱暴者のバンカラさえも、手塚少年には一目置くようになります。
解説にも「国粋主義の番長のようなもの」と書かれているこのバンカラ、乱暴者ですがなかなかに侠気もあり、手塚少年の書いた美少女「クミコちゃん」におみやげを買ってきてしまうような可愛いところもあり、印象的なキャラクターです。戦時中の規制の激しい学校で、禁じられているマンガを描き続けた手塚少年と、彼を励まし、勇気付けたバンカラの姿は、夢を実現させる勇気を読者に与えてくれます。
「長いきせえよ、おまえ大モノになるで」と言ったバンカラはしかし、特攻隊に入り、手塚少年のその後の活躍を見ることはありませんでした。
思い出話のように淡々と語られる自伝的作品ながらも、強く印象に残る短編です。