手塚治虫が1946年1月に『マアチャンの日記帳』でデビューしてから、今年で60周年となります。今月の『虫ん坊』では、この60年を「前期」「中期」「後期」「その後」の4期にわけ、その創作活動の軌跡を追って、あらためてご紹介してみたいと思います。


■前期 1946〜1960


↑デビュー作
「マアチャンの日記帳」



1946年1月4日、手塚治虫は新聞の4コママンガ『マアチャンの日記帳』でデビューしました。翌年には、当時の読者に衝撃を与えた単行本『新宝島』を発表。その後も『ロストワールド』『来るべき世界』『メトロポリス』など数々の名作を発表し、大阪大学医学専門部の学生ながら、一躍売れっ子のマンガ家となりました。
1952年には上京し、『ジャングル大帝』や『アトム大使』などですでにスタートさせていた雑誌の仕事を本格化させます。そんな中『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』などの大ヒット作も誕生し、手塚治虫の人気は決定的となります。まさに手塚治虫が少年・少女雑誌を席巻した時代でした。



■中期 1961〜1974


↑虫プロダクション設立の頃


1961年に設立された「手塚治虫プロダクション動画部」は、翌年に名前を「虫プロダクション」と変更。手塚治虫はついに長年の夢であったアニメーション制作に取り組みます。1962年には第一作『ある街角の物語』が完成し、1963年の元旦からは『鉄腕アトム』のTVアニメがスタート。さらに同年9月からはアメリカでも『ASTROBOY』というタイトルで放送されました。
『鉄腕アトム』の大ヒットを受け、『W3』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『悟空の大冒険』ほかの作品も次々とアニメ化され、マンガでも『ビッグX』『マグマ大使』『火の鳥』などのヒット作・代表作が誕生しています。


↑虫プロダクション制作・アニメ「鉄腕アトム」


↑手塚治虫復活の契機となった、「ブラック・ジャック」


 しかし、後進のマンガ家や劇画の台頭により、手塚治虫の作品といえど絶対的な人気を得る事ができなくなってきます。時代に合わせて青年マンガなどにも手をつけ始めた手塚治虫でしたが、組織が巨大化しすぎた虫プロダクションは、1973年に倒産してしまいます。しかし、そんな逆境で生まれた作品が、手塚治虫を復活させました―そう、その作品こそ皆さんも良く知っている『ブラック・ジャック』です。

■後期 1975〜1989


↑実験アニメ「森の伝説」のワンシーン。


↑新座のスタジオにて。


 『ブラック・ジャック』で復活をとげた手塚治虫は、人気作『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』などを描き継ぐ一方で、青年誌や少女誌での仕事も再び活発になります。そして1977年には全300巻という前代未聞のスケールとなる『手塚治虫漫画全集』(講談社)が刊行スタート。
やがて、1978年の『バンダーブック』を皮切りに、アニメーションの制作も本格的に再開され、映画『火の鳥2772』やTVシリーズ『鉄腕アトム』、そして実験アニメの代表作『ジャンピング』や『森の伝説』等が作られました。
また、マンガでは自らのルーツを描いた大河歴史ドラマ『陽だまりの樹』や、晩年を代表するヒット作となった『アドルフに告ぐ』など、作品内容にもますます円熟味を増し、執筆意欲もますます盛んに思われましたが、1988年から手術と入退院を繰り返し、1989年2月9日、惜しまれながらこの世を去りました。病名は胃がんでした。

■その後


↑「どろろ」は映画化が決定しています。


手塚治虫の没後も、手塚作品は生き続けています。
まず、未完成だったアニメ『青いブリンク』『聖書物語』は、残されたスタッフ達の手によって完成され、TVで放送されました。その後も、数多くの作品がTV、ビデオ、映画としてアニメ化されています。特に『ブラック・ジャック』はアニメ・実写・ミュージカルなど、さまざまなジャンルで発表されています。
また『手塚治虫漫画全集』は、300巻の中に収録されなかった作品を集めて100巻が追加され、全400巻となりました。
昨年から今年にかけても『ASTROBOY 鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』がTVアニメとして放送され、さらに来年以降はミュージカル『リボンの騎士』や、実写映画『どろろ』などの製作が発表され、話題となっています。

これからも手塚作品は愛する人々に支えられ、ずっと現役であり続けることでしょう。ファンの皆さんも変わらぬ応援をよろしくお願い致します。