勤労動員に駆り出される

1945年


マンガ「紙の砦」原画より


マンガ「紙の砦」原画より

マンガ「紙の砦」原画より

 敗戦の年、ぼくは淀川の軍需工場にいた。軍需工場といっても、格納庫の屋根や壁などに使う、スレートをつくる町工場である。敗北につぐ敗北のニュースは、情報局がひたかくしに隠そうとしても、ぼくらの耳には隙間(すきま)風のように吹きこんできて、もうやけっぱち気分になっていた。ぼくは寮の中や、トロッコの横で、スパイのように隠れながら漫画を描いた。
「手塚! 空襲警報だ!」
 と、どなられようが、油脂焼夷弾(ゆししょういだん)が雨あられと降ろうが、もう平気だった。三月空襲で、東京が焼け野原になってしまった直後、大阪にも最悪の日が来た。B29の編隊が淀川に沿って上ってき、ありったけ爆弾を落とすと、また淀川沿いに帰っていった。淀川べりのわが工場は、敵機が帰る途中、余りの爆弾を捨てていく、そのとばっちりを受けた。
 空は一面夜のような暗さで、あちこちの火の手が、ダンテの地獄篇(へん)のようなすさまじさを呈していた。きな臭く黒い雨が降りしきり、淀川堤は死体や瓦礫(がれき)の山で、ことに大橋の下は、避難した人々の上へ直撃弾が落ちて、折り重なって黒焦げになっていた。牛が一頭、半分埋まって、ビフテキのような匂いをただよわせていた。ぼくは、もう沢山だと思った。もう結構。これは、この世の現象じゃない。作り話だ。漫画かも知れない。おれは、その漫画のその他大勢のひとりにちがいない。それなら、早いとこ終わりになってもらいたい。
 友人の家はあらかた焼けてしまった。ぼくが描きためた漫画の原稿を、ごっそり貸してあった友人の家も、きれいさっぱり焼けてしまった。焼け跡に舞い上がった灰の中に、何百枚かの原稿の丹精こめて描いたヒゲオヤジやアセチレン・ランプ達が昇天していった。

講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集 1』より
(初出:1969年毎日新聞社刊『ぼくはマンガ家』)