鳥人大系

解説:

(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集『鳥人大系』2 あとがき より)
 SF作家クラブが、故福島正実氏のリードで毎月一回例会をひらいていた頃、SFマガジンの副編集長だった森さんも必ずそこに出席していて、
「手塚さん、本誌にまた連載を…。」
 と何度かたのまれ(以前「SFファンシーフリー」をかいてから、もうかなりの時間がたっていた)、一心奮起して、大長編大河SFスペクタクルロマンをかこうと決心したのです。
 ぼくは、ブラッドベリのおなじみ「火星年代記」と、シマックの「都市」の、ご多分にもれず、かなり熱烈な愛好者でした。漫画でひとつ、あのようなエピソードの連作形式で、超人類の歴史をえがきたいと思っていたやさきだったので、
「じゃあ、『鳥人年代記』というタイトルにいたしましょう。」
といってしまって、予告にでてから、「しまった!」と思いました。
 鳥人に関しては、すでにかなり昔「ロック冒険記」で、エプームというキャラクターをだしてしまっているのです。
 あれの二番煎じになったら、SFマガジンにのせる意味がありません。
 そこで、人間と鳥とのかかわりから、さりげなく始めることにしたのです。

読みどころ:



 動物の中でもとりわけ優雅で美しい"鳥"。その鳥たちにもし、人間顔負けに発達した知能がついたら…? そんな「もしも」から発した、鳥人たちの恐ろしくも少し物悲しい歴史大系です。


 この壮大な歴史大系の発端はある「事件」です。小鳥に高タンパク餌を与えて知恵をつけ、高値で売る商売をしていたある農家が全焼、家族全員焼死する、という、新聞の社会面にでも載っていそうなごくありふれて日常的な「事件」が始めに語られます。壮大な『鳥人大系』のプロローグにしては、およそ不釣合いな、ごくさりげないエピソードですが、それゆえにこの後の不気味な展開を効果的に示唆するプロローグとなっています。


 鳥が人間を襲うという話なら、すでに有名なヒッチコックの映画『鳥』がありますが、鳥たちがそのまま進化し、人類から地球を乗っ取り、鳥人として文明を形成してゆくこの物語には、『鳥』以上の不気味さと恐怖があります。人類を滅ぼすのは、宇宙からの侵略者ではなく、あくまで内なる侵略者、進化した鳥たちだと言うのがなんとも恐ろしいではありませんか。


 それはそれとして、この作品のすごいところは、その恐怖のみではありません。人間にとってはまったくの異種族・鳥人たちですが、そのキャラクターがなんとも魅力的に描かれているところも、ぜひ注目していただきたいところです。同じ画面に登場する野蛮な人間たちよりも一回り小さく、ほっそりと優雅な鳥人たち。殺し屋のベグラーやモッズ警部は「男前」だし、「赤嘴党」で登場した名もない上流階級の奥様や「ラップとウィルダのバラード」のウィルダの美しいこと。鳥人におけるイエス・キリスト・聖ポロロの清らかさなど、架空の生物「鳥人」のキャラクターをこうまで魅力的に描き分けた手塚治虫の画力に酔うのも、また楽しみの一つです。
雨ふり小僧

解説:

(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集『タイガーブックス』8巻あとがき より)

(前略)
 この短編集にふくまれたものは、主に集英社の「少年ジャンプ」を中心にした読み切りですが、小学館や旺文社その他のものも雑然とはいっています。主として人情劇というか、センチメンタルな内容のものが多く、動物を扱ったファンタスティックな作品が主体になりました。また、一連の民話のバリエーションもありますが、これは、あまりにSFものがつづいたための肩ほぐしにかいて、けっこうたのしかったのでつづけているのです。そして、手塚にもこんな一面があったのかと評価してくだされば幸いです。(中略)
 「雨ふり小僧」(第3巻)「はなたれ浄土」(第8巻)「てんてけマーチ」(第5巻)「いないいないばあ」(第7巻)は、柳田国男氏や、そのほかの著者の民話から変形させた作品で、もとの話をご存知のかたは、その手塚流味つけをご賞味ください。
(後略)


読みどころ:



 「雨ふり小僧」は、「月刊少年ジャンプ」の昭和50年9月号に掲載された、民話調の短編作品です。山奥の分教場の少年と、小さな妖怪との心の交流をノスタルジックにえがき、数ある短編の中でも、特に人気の高い作品となっています。
 分教場に通う主人公のモウ太には、同級生がいません。そのモウ太の前に突然、ボロボロの傘をかぶった小さな妖怪があらわれます。「雨ふり小僧」と名乗るその妖怪は、モウ太のゴムのブーツとひきかえに、3つの願いをかなえると言います。モウ太は雨ふり小僧にブーツをあげる事を約束して、3つの願いをかなえてもらうのですが…。

  この作品の人気の高さを語る上で、ノスタルジックな雰囲気や、キャラクターの魅力に加え、読者の胸を打つ感動的なクライマックスを外すことはできません。ずっしりと心に残るその読後感は、あの「ブラック・ジャック」の傑作エピソードを読み終えた感覚に似ています。「約束を守ることの大切さ」というシンプルなテーマが、シンプルであるがゆえに力強く、読者の心を揺さぶるのです。

 余談ながら、この「雨ふり小僧」は1983年に手塚プロダクションによってアニメ化されています。

 手塚ファンを自認する方にはぜひ読んでおいてほしいこの作品、1度読めばきっとあなたも、無邪気な"雨降り小僧"のとりこになることでしょう。
火の鳥 少女クラブ版

解説:

(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集『火の鳥 少女クラブ版』あとがき より)
 少女クラブに連載していた「リボンの騎士」が終わったころ、ぼくはアメリカ映画の「トロイのヘレン」とか「ピラミッド」とかいった史劇をたてつづけに見ていました。
 そして、そういったスペクタクル=ロマンを、ぜひ少女ものにかきたいと思っていました。「火の鳥」を連載しないかという話があったとき、とっさに思いついたのは、ヨーロッパの歴史を大河ものにすることでした。そして、アイディアは、そういったアメリカ映画のスペクタクル=ロマンとむすびついていきました。
 それで、エジプト編がはじまったわけです。
 漫画少年の「火の鳥」とちがって、やたらと甘く、やたらと恋や愛が出てくるのは、はじめから「リボンの騎士」のファンを意識していたからです。
 かいていていちばんつらかったのは、やはりトロイ戦争の場面でした。ところが、この別冊ふろくのとき、ぼくは九州の宿へカンヅメになっていました。群衆シーンがつづくのに、しめきりにまにあわず、やむをえず代筆になってしまったりしました。その代筆はおもに内野澄緒(うちのすみお)さんでしたが、九州のときは、高井研一郎さんとか、松本零士さんたちに手伝ってもらいました。もちろん、まだお二人とも高校生のころのことです。
 松本さんがせっせとかいた群衆シーンが、あまりにギャグっぽかったので、少女クラブの編集部でボツにしてしまったりしたのも、今では思い出話です。


読みどころ:


 「火の鳥 少女クラブ版」は、月刊誌『少女クラブ』の昭和31年5月号から昭和32年12月号にかけて連載されました。作品全体は「エジプト編」「ギリシャ編」「ローマ編」の3編から構成されており、「火の鳥」シリーズの中では「ギリシャ・ローマ編」という別名でも呼ばれています。
 物語は、エジプトの王子・クラブと、女奴隷・ダイアの2人の恋物語と冒険が軸となり、それと並行して、火の鳥の子供・チロルの成長物語が描かれています。
 最初の舞台は、今から3000年前のエジプト。クラブとダイアは、洪水に流されそうになっている火の鳥の卵を偶然助けたことから、そのお礼として火の鳥の血を飲ませてもらい、3000年の間死なない体になります。しかし、エジプト王暗殺の陰謀に巻き込まれた2人は国を追われ、スパルタからトロヤへと、運命に流されるままに彷徨(さまよ)うこととなりました。

 この「少女クラブ版」の特徴は、他の「火の鳥」シリーズに比べて圧倒的にファンタジー色が強いことです。これはやはり「リボンの騎士」のイメージを引き継いでいるためで、特に天界から下界へと舞台を移動するプロローグの部分は、非常に「リボンの騎士」と世界観が共通しています。また、シリーズの狂言回し的なイメージの強い火の鳥が、この「少女クラブ版」では、チロルの誕生・成長物語を通して、たびたび人間的な一面を見せるのも、珍しい趣向です。
 そして、なんといってもこの作品は、絵の魅力が実に大きいのです。チロルの可愛らしさ、鳥達のダンスシーンの見事さ、ウサギ・キツネ・亀その他、動物たちのいきいきとした姿…。そしてもちろん、小物からキャラクターの衣装、背景にいたるまで、外国映画を「手塚流スペクタクル=ロマン」として消化し、再構築したその手腕。「火の鳥」シリーズのなかでは異色作であるものの、少女ものとしても、ファンタジーものとしても、間違いなく代表作の1つだといえるでしょう。


シュマリ

解説:

(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集『シュマリ』あとがき より抜粋)
 ぼくには「勇者ダン」という、アイヌの少年を扱ったSF作品があります。
 再び青年誌でアイヌ問題を扱おうと考えたのは、「北海道開拓誌」という本で、上川地方のアイヌ大集落の悲惨な歴史を読んだからでした。それもあくまでも内地人の立場から一方的にかいたもので、逆にアイヌ側からかけば、およそちがった内容のものになるだろうと思いました。それで明治初期に、堂々と侵略者である内地人と対決した架空のアイヌのヒーローをえがいてみたい気持ちになりました。
 だから、主人公のシュマリは、はじめの構想ではアイヌと内地人の混血の青年だったのです。
 それが、どたん場で急に幕府のもと旗本になってしまったのは、アイヌ問題は、かるがるしく漫画やフィクショナブルな物語では取り扱えない、複雑で、重大な問題を含んでいて、しかも征服者である内地人であるぼくが、被害者であるアイヌの心情などわかるはずがないと悟ったからです。
 もちろん、この物語の予告を読んだアイヌのかたがたから、内容はきわめて注意をするように、と忠告されたことにもよります。
 それまでにたてていた構想をすっかりひっくり返し、白紙に戻して、タイトルだけ残してあらたに筋立てをするのは、おそろしくやっかいなことでした。そして、まずそれはもとの構想よりも上等な作品に生まれるはずがありません。
 そのうえ、連載をしつつも、編集部で何度もセリフの変更をされるのでした(編集部にも、アイヌのかたから注意があったそうです)。
 で、結局完成した作品がこれです。シュマリはたいへんあいまいな性格の、ぼく自身乗らないヒーローになりました。
 ウエスタン調の、この開拓裏面史は、中央政府が薩長によって確立される前後の、余震のような出来事といえます。
 じつは、この物語をかく前は、ぼくはたった一回、それも漫画集団のサイン会のために北海道へ行ったきりなのです。ことに、石狩平野の一部である千歳あたりさえ、まっくらな夜中に通っただけでした。だから、画面はほとんど全部頭の中でデッチあげた当時の北海道です。(後略)


読みどころ:



 『シュマリ』は、明治初期の北海道を舞台にした大河ドラマです。
 主人公は、野生的でありながら剣の腕も立つ男・シュマリ。彼はもともと内地人ですが、先住民のアイヌ人に敬意を持ち、親しく交流していました。ちなみに「シュマリ」とは、「キツネ」を意味するアイヌ語です。彼が北海道へ渡ってきた目的は、逃げた妻・妙(たえ)と、相手の男を探し出すこと。


 しかし、その目的は、あっさりと物語の序盤で達成されます。そして、妙の心がすでに自分から離れてしまっていることを確信したシュマリは、彼女への想いをくすぶらせつつ、未開の地でさすらうように生きていくことになります。つまり、ここまではシュマリという一人の男の紹介エピソードであって、この後にシュマリが辿る波乱万丈の人生が、この物語のメインなのです。


 隠匿された五稜郭の軍用金を偶然手に入れたことから、シュマリの運命はさらに大きく変わっていきます。騙されてネズミが大量発生する土地を買わされたり、殺されたアイヌ人の女性が連れていた赤ん坊、ポン・ションを育てるはめになったり、お尋ね者として収監され、炭鉱で強制労働させられたり・・・。


 やがて時代は流れ、北海道にも文明開化の波が押し寄せます。それと同時に、物語は炭鉱会社の太財社長や、書記官の華本男爵、そして男爵の妻となった妙、成長したポン・ションなど、手塚作品らしく、さまざまな登場人物達のエピソードに枝分かれしていきます。しかし、そんな時代の大きな流れの中でも、シュマリの生き方だけはかわることがありません。まわりの人間達は、そんなシュマリの強情さに反発しつつも、抗し難い魅力を感じているのです。

 どんな困難や逆境におかれても、自分の力一つで乗り切ってゆくシュマリ。その一本気で豪快な生き方こそ、この作品最大の魅力であり、ストーリーを前へと進める原動力ともなっています。あなたも一読すれば、きっと劇中の登場人物達と同じように、彼に魅了されることでしょう。
火の鳥 生命編

解説:

『火の鳥 生命編』は、「マンガ少年」昭和55年8月号~12月号に掲載されました。

読みどころ:


「火の鳥 生命編」は、近未来を舞台にした作品で、「テレビの視聴率のために生命をもてあそぶ人間」が主人公として設定されています。そのため「思い上がった人間と、それを罰する火の鳥」という図式が明確で、「火の鳥」のシリーズの中でも比較的わかりやすいテーマを持った一作といえるでしょう。

 TV局のプロデューサー・青居は、クローン動物の狩りを見せる番組「クローンハンティング」のテコ入れのため、クローン人間狩りを企画します。世界にたった一つだけ、アンデスの山奥にあるクローン生物の研究所を訪れた青居は、現地で“鳥”と呼ばれている人間に会います。“鳥”は仮面をかぶった謎のまじない師で、クローン技術の権威でした。実は研究所のスタッフも、“鳥”に技術を教わって哺乳類のクローンに成功したのです。しかし、青居が待ち望んでいたクローン人間の登場は、逆に彼にとてつもない不幸をもたらすことになるのです…。

 視聴率最優先の登場人物達が織り成すストーリーは、「マスコミの狂気」や、「飽きやすく、刺激を求める視聴者達」など文明批判も明確で、ストレートに読者の心に届きます。
 また、物語の途中から孤児の娘・ジュネが登場し、青居とともに野性の中で生活する事になりますが、そのジュネ個人の運命に収束されていくラストシーンの味わいは、壮大なスケールの「火の鳥」というより、むしろ「ブラック・ジャック」のような秀作短編に似ているといえるでしょう。