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記念館企画展

  • 第5回企画展 漫画と絵日記による戦争記録展 ~学童疎開の600日~

  • (1995/06/29)

  •  戦後40余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。当時の状況を体験として、 つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに「戦争」の本当の姿を語り伝えていかなくてはまた再び、 きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。 (1989年、光文社 手塚治虫『ガラスの地球を救え』より)

     手塚が少年期から青年期をむかえた日本では中国との戦争がはじまり、 やがて戦火は太平洋の諸国ほとんどすべてを巻き込む世界大戦へと拡大していった。 この時期の手塚の戦争体験は後の創作活動の重要なテーマになってゆく。 手塚は『空気の底』『カノン』『ゼフィルス』などの短編作品において戦争を繰り返し表現し、 戦争を体験した語り部として、戦争の悲惨さや国家エゴイズムの醜さを伝えてきた。 その集大成として晩年の長編『アドルフに告ぐ』が執筆された。

     一方この時代の、リアルタイムの子どもたちは戦争をどうとらえていたのだろうか。日本の敗戦が色濃くなった戦争末期に、 日本の政府は「学徒動員」や「学童疎開」という政策をおこない、 労働力として動員できる者は学生や生徒まで軍事物資の生産につかされ、子どもたちは避難のため親から引き離されて、 田舎や農村で共同生活を送らねばならなかった。

     この学童疎開の記録(子どもたちの目でとらえた戦争の記録)が、出発から解散まで 600日に及び絵日記という形で保管されていた。 この記録を保管していた国立「お茶の水女子大学付属国民学校」の卒業生たちも、 「この戦争の記録を語り継がなくては」という気持ちで約3000枚に及ぶ資料を持ち続けてきたという。

     手塚治虫記念館では館のコンセプト「自然への愛と生命の尊さ」のもと、戦後50年の節目に当たる年の企画展として、 手塚の体験の記録として漫画作品で描かれた戦争と子どもたちの目を通して絵日記で記録された戦争を並列展示する事により、 戦時における社会や文化・生活を知り、いま当たり前のように思われている「生命と平和と自由」が多くの人々にとって 実はとても大切なものであることを語り継いで行きたいと考え、今回の企画展とする。











    I.手塚治虫の「戦争」

    手塚治虫展示原稿


    「ゼフィルス」
    1971(昭和46)年5月23日号
    『週刊少年サンデー』掲載


    「新・聊斎志異 女郎蜘蛛」
    1971(昭和46)年1月17日号
    『週刊少年キング』掲載


    「カノン」
    1974(昭和49)年8月8日号
    『漫画アクション』掲載


    「イエローダスト」
    1972(昭和47)年7月12日号
    『ヤングコミック』掲載


    「てんてけマーチ」
    1977(昭和52)年9月号
    『月刊少年ジャンプ』掲載


    「世界を滅ぼす男」
    1954(昭和29)年10月号
    『冒険王』付録


    「どついたれ」
    1979(昭和54)年6月7日号~12月20日号
    『週刊ヤングジャンプ』掲載
    「人食い岬の決戦」


    「紙の砦」
    1974(昭和49)年9月30日号
    『少年キング』掲載


    「ブラック・ジャック」
    1978(昭和53)年6月26日号
    『週刊少年チャンピオン』掲載


    「人間ども集まれ!」
    1967(昭和42)年1月25日号~1968(昭和43)年7月24日号
    『週刊漫画サンデー』掲載













    II.絵日記が語る「戦争」(学童疎開展)

    青い惑星(ほし)の子どもたちへ

     いま、リアルタイムで戦争に巻き込まれた人々の様子が、お茶の間のテレビに写し出されます。子どものなきがらを抱いて叫ぶお母さん、やせ細り汚れた衣服を身にまとった子どもたち。日本にも同じ光景があったことを、みなさんは信じられますか?

     50年前、私たちは『疎開の子ども』でした。日毎に激しくなる空襲をさけて、子どもたちは安全な場所へと移動したのです。親戚や知人を頼っての「縁故疎開」と、学校ごと地方へ移る「集団疎開」とがありました。

     集団疎開では、当然親子が離れ離れに暮らすことになります。
     私たちの場合は約600日の間、わが家から遠く離れて暮らしました。
     帰ってきたのは戦争が終わった次の年の3月ですが、どこも焼野原になっていました。
     ここに展示した絵日記は『少国民』と呼ばれた私たちの記録の一部です。どんなことも我慢するのが少国民でした。誰もが「欲しがりません、勝つまでは!」と言っていたのです。

     いま当たり前のようにある「生命(いのち)と自由と平和」は、とてもとても大切なものだということを皆さんに伝えておきたいのです。
     私たちが生きてきた年月と同じだけの時間がたち、今度はみなさんが次の時代に伝えてくださる時に、この時代の証言者たち=絵日記=は、10歳前後の少年少女のまま息づいているでしょう。

     地球がいつまでも青く輝き続けることを祈っております。

     〔学童疎開記録保存グループ〕





    「絵日記について」

     展示の絵日記は、東京女子高等師範学校付属国民学校(現お茶の水女子大学付属小学校)に在学した当時3年生から6年生までの生徒の絵日記です。
     入学してすぐに絵日記の指導が行われていました。疎開参加者は総勢にして250名ほどで、全員が書いたはずなのですが、いまから10年前、体験や資料の風化を危惧した有志の発声で資料を集めてみたところ、およそ参加者の1/7の人が持っているということがわかりました。しかし揃って保存されているのは、たった3名でした。一部分しか残っていない人のもあわせてみると70数冊に及びました。疎開の出発から解散まで20ヶ月、600日からなる絵日記は、50年を経て『時代の証言者』として10歳前後の少年少女のままです。
     つらい、お腹が空いた、帰りたいなどの記述があるのはほんのわずかで、大部分は戦時下にあって少国民としての生活を綴ったものです。
     おいしかったと書いても、もっと欲しいとは書いてありません。
     戦争が終わって2ヶ月から3ヶ月で疎開児童は家に帰りますが、この学校は次の年の3月まで残り、雪国で冬を越します。
     子どもたちにとっての戦争は、家に着いたときに終わったのです。

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