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記念館企画展

  • 1996/09/05〜1996/12/20
    COM展
    −'70年代のマンガ専門誌−

  • (1996/09/05)

  •  『COM』という雑誌がありました。1967年から70年代はじめにかけて、 手塚治虫がかつて自らが「ジャングル大帝」を連載して雑誌進出の舞台となった『漫画少年』(学童社)のような、 新人の登竜門をめざして発行した雑誌です。『COM』は、 1967年1月号から1971年12月号まで、計58冊発行されました。
     『COM』とは、「COMICS」(マンガ)、 「COMPANION」(仲間・友達)そして「COMMUNICATION」(伝えること・報道)の略で、 マンガを愛する仲間たちに、マンガの本当の心を伝える新しいコミック・マガジンである、と手塚治虫は創刊号の中で言っております。
     当時は、劇画が貸本の世界から雑誌に進出してきた台頭期で、 白土三平「ワタリ」(週刊少年マガジン)「カムイ伝」(週刊少年サンデー)、 水木しげる「墓場の鬼太郎(ゲゲゲの鬼太郎)」(週刊少年マガジン)、 梶原一騎・川崎のぼる「巨人の星」(週刊少年マガジン)などが人気を呼んでいました。 また、白土三平の問題作「カムイ伝」を連載するため、 64年に長井勝一が創刊した雑誌『ガロ』(青林堂)が、知識人の注目を集めていました。
     そんな劇画の脅威に抵抗するかのように、 手塚治虫は『COM』で、かつて『漫画少年』で未完に終った大作「火の鳥」を構想新たに再開し、 また採点や講評を詳しく連載する新人賞を設けて、そこから多くの新人作家が巣立ってゆきました。 「まんがエリートのためのまんが専門誌」をうたい、幅広く文化としてのまんがの世界をとりあげて、 学生・知識人層のまんがファンを育てる役割も果たしました。
     ベトナム戦争や、70年の日米安保条約改定に反対する、学生や市民の運動が全国に広がり、 世の中は騒然とした雰囲気に包まれつつありました。映画、演劇、美術などの分野でも、新しい世代による実験的な動きが、 次々と起こっていました。そんななかで『COM』は、まんがにおける若い世代の実験場という一面を、 強く持つようになってゆきました。当時は、青年向け劇画誌の相次ぐ創刊により、劇画が青年まんがへと変貌を遂げる時期であり、 また少女まんがに新しい世代がデビューして、次々と新しいテーマに挑戦していった時期でもありました。 まんがを太宰治やヘッセ、ニーチェやドストエフスキー、リルケやハイネのように、 青春の座右の銘の書として読み続ける世代が育っていったのです。 それらの動きを『COM』は敏感に先取りし、反映してゆきました。 まんがファンにとってはまさに幻の雑誌といえる『COM』の世界を、手塚治虫の作品や発言とともに紹介したいと思います。



    第1部 『COM』とその時代
    第2部 『COM』の手塚治虫
    第3部 『COM』の作家たち
    第4部 『COM』から育った作家たち
    第5部 少女まんがと『COM』
    第6部 『COM』とまんが文化


    第1部 『COM』とその時代

     『COM』という雑誌がありました。1967年から70年代はじめにかけて、手塚治虫が、 かつて自ら「ジャングル大帝」を連載して雑誌進出の舞台となった『漫画少年』(学童社)のような、 新人の登龍門をめざして発行した雑誌です。
     当時は、劇画が貸本の世界から一般雑誌に進出してきた台頭期で、白土三平「ワタリ」(少年マガジン)や「カムイ外伝」(少年サンデー)、 水木しげる「墓場の鬼太郎(ゲゲゲの鬼太郎)」(少年マガジン)、梶原一騎・川崎のぼる「巨人の星」(少年マガジン)などが人気を呼んでいました。 また、白土三平の問題作「カムイ伝」を連載するため、1964年に長井勝一が創刊した雑誌『ガロ』(青林堂)が、学生や知識人の注目を集めていました。 そんな劇画の脅威に対抗するかのように、手塚治虫は『COM』において、かつて『漫画少年』で未完に終わった大作「火の鳥」を構想新たに再開し、 また採点や講評を詳しく掲載する新人賞を設けて、そこから多くの新人作家が巣立ってゆきました。「まんがエリートのためのまんが専門誌」をうたい、 幅広く文化としてのまんがの世界をとりあげて、学生・知識人層のまんがファンを育てる役割も果たしました。 ベトナム戦争や、70年の日米安保条約改定に反対する学生や市民の運動が全国に広がり、世の中は騒然とした雰囲気に包まれつつありました。 映画・演劇・美術などの分野でも、新しい世代による実験的な動きが次々と起こっていました。そんななかで『COM』は、手塚治虫の意図とは別に、 まんがにおける若い世代の実験場という一面を強く持つようになってゆきました。
     当時は、青年向け劇画誌の相次ぐ創刊により、劇画が青年まんがへと変貌を遂げる時期であり、また少女まんがに新しい世代がデビューして、 次々と新しいテーマに挑戦していった時期でもありました。まんがを太宰治やヘッセ、ニーチェやドストエフスキー、リルケやハイネのように、青春の座右の銘の書として読み続ける世代が育っていたのです。それらの動きを『COM』は敏感に先取りし、反映してゆきました。第1部では激動期の日本社会を背景に台頭する劇画の様子(「ワタリ」「カムイ外伝」「墓場の鬼太郎」など)の転写プリントと『COM』の雑誌本体を対峙する形で立体展示を行います。





    第2部 『COM』の手塚治虫

     雑誌『COM』の中で手塚治虫は「ほんとうのストーリーまんがとはどういうものかを、わたしなりに示したい」という意欲で、1967年1月創刊号より「火の鳥」(第1部・黎明編)を連載し、以後'70年10月までに、「未来編」「ヤマト編」「宇宙編」「鳳凰編」「復活編」「羽衣編」を『COM』で発表しました。'71年12月号の「第8部・望郷編」は『COM』が翌号から『COMコミックス』と改題されることになったため、 また'78年8月号の「第9回・乱世編」は『COM』がその号限りで休刊となったため、 ともに第1回を掲載しただけで未完となり、のちに『マンガ少年』(朝日ソノラマ)に舞台を移して再開されました。
     ライフワークとも称される「火の鳥」連載のほかにも、手塚は『COM』を舞台にさまざまな発言を行いました。 「創刊のことば」「『COM』創刊1周年を迎えて」「愛読者のみなさんへ」といった雑誌主宰者としての発言はもちろん、 エッセイ「まいまいかぶり」を連載してまんが界への提言・苦言を行ったり、「公開質問状」を掲載して評論家と論争したりもしました。 ほかにも、特集に寄せたコメントやアンケート、新人賞の選評、回想「ぼくのまんが記」など、『COM』には折にふれて書かれた手塚の生々しい意見が、数多く収録されています。
      当時は入手困難だった手塚の旧作の再録も、『COM』の重要な役割の一つでした。 「冒険狂時代」「フィルムは生きている」「ハトよ天まで」といった作品に、この『COM』で初めて触れた読者は多かったと思われます。 「罪と罰」「弁慶」は別冊付録として、単行本のイメージに近い形で再現されました。こんなファンにはうれしいアイデアも「まんが専門誌」ならではでした。 このほかにも膨大な「手塚治虫作品リスト」や、近況を伝える「虫通信」の連載など、随所に手塚治虫の姿が見える、 手塚治虫ファンのための雑誌でもありました。


    創刊のことば


    COM――それはCOMICS(まんが)の略。
    COM――それはCOMPANION(仲間・友だち)の略。
    そしてCOMMUNICATION(伝えること・報道)の略。
    つまり、まんがを愛する仲間たちに、まんが家のほんとうの心を伝える新しいコミック・マガジン――そんなことを考えて、 わたしたちはこの雑誌のタイトルを「COM」ときめた。今はまんが全盛時代だといわれている。だが、 はたして質的にどれだけすぐれた作品が発表されているのだろうか。まんが家の多くは、 苛酷な商業主義の要求に屈服し、追従し、妥協しながら仕事に忙殺されているのが実状ではないだろうか。 わたしは、この雑誌において、ほんとうのストーリーまんがとはどういうものかを、わたしなりに示したいと思う。 同時に、かつての「漫画少年」のように、新人登龍門としてこの雑誌を役立てたいと考えている。「COM」は、 まんがを愛する仲間たちの雑誌である。

    月刊雑誌「COM」を、そうした意味で、読者のみなさんがかわいがってくださるようお願いしたい。

    昭和41年12月1日  手塚治虫


    第3部 『COM』の作家たち

     「火の鳥」と並んで、『COM』の看板作品となったのは、石ノ森章太郎「章太郎のファンタジーワールド・ジュン」と、 永島慎二「シリーズ黄色い涙・フーテン」でした。
     「ジュン」は、幼い少女と出合った少年の心に映る風景を、大胆なコマ割りと、セリフの一切ないサイレントまんがという手法で見せる、 実験的な作品です。SF的なダイナミックさ、少女まんがの美しさ、社会問題に目をむけるリアルさなどを、 イメージの流れのなかに表現したこの作品は、まんがにおける「実験」について、当時の若い読者の目を開かせたという意味でも まんが史的にも重要な位置を占める作品といえます。ここで行なった実験が後の「佐武と市捕物控」における江戸の風景など、石ノ森まんがを特徴づける心象風景につながっていったといえます。
     「フーテン」は、'60年代の東京・新宿歌舞伎町あたりにたむろした文化的浮浪者・フーテン族の生き方と心情を、 永島慎二がかつてその中に飛び込んで暮らした経験をもとに、共感を込めて描いた作品です。老若男女、 多様な過去を持つ都会の世捨て人たちの、人生に苦悩し社会からドロップアウトする姿が当時の若者の強い共感を呼びました。 貸本まんが出身だった永島慎二は、この作品で時代のヒーローとなり、青年まんが誌を舞台に活躍を始めました。
     ほかにも主要な連載作品には、松本零士のファンタジックな「四次元世界」シリーズ、 山上たつひこの未完に終わった構想雄大なハードSF「人類戦記」、江戸の瓦版絵師を主人公にまんが表現論を展開した真崎守「こみっきすと列伝」、 「ひっとらあ伯父さん」も登場し独特のブラックな笑いを展開した藤子不二雄(A)「白い童話」シリーズ、孤児となった子犬の冒険と成長を描く村野守美の未完の傑作「ほえろボボ」、 当時の人気まんがを次々俎上にあげた長谷邦夫のまんがによるまんが時評「パロディ劇場」などがあります。いずれも一般商業誌とは一味違うテーマや表現を選びながら、その作家の特質がよく出た、まんが専門誌らしいユニークな作品ばかりです。
     また、虫プロのアニメーターだった坂口尚や、まだ石ノ森章太郎のアシスタント時代の永井豪らが、 新人として活躍していたのもこの頃です。 手塚をはじめ水野英子、寺田ヒロオ、赤塚不二夫、つのだじろうなど、 伝説のまんが家アパート・トキワ荘にゆかりの作家11人による読みきり連作「トキワ荘物語」も、『COM』ならではの企画作品でした。




    第4部 『COM』から育った作家たち

     『COM』はその目的の一つに、新人まんが家の発掘と育成を掲げていた。 そのための読者投稿欄は「ぐら・こん」(グランド・コンパニオンの略)と名づけられ、 投稿作品を誌上でていねいに批評・採点したうえで、「月例新人賞」や年一回の「COM新人賞」などを選出し、 多くの個性的な新人まんが家を送り出しました。
     なかでも、創刊2号に掲載された岡田史子「太陽と骸骨のような少年」は、内向する思春期の少女の心理を 繊細で詩的なモノローグで伝えて、その表現の新しさで読者に衝撃を与えました。また'67年5月号では宮谷一彦が「ねむりにつくとき」で第2回月例新人賞に入選。 反抗する青春の心情を、政治やセックス、ロックなど時代の風景に託して読者の心を捉えました。彼らは新人であると同時に、 『COM』のスターとして雑誌のイメージをリードし、当時相次いで創刊された青年まんが誌にも大きな影響を与えました。
     この他にも『COM』月例新人賞でデビューし、後に第一線で活躍するようになったまんが家には、「土佐の一本釣り」の青柳裕介、 怪奇まんがで独自の世界を築いた日野日出志(星野安司)、「博多っ子純情」の長谷川法世(はせがわほうせい)、 少女まんがの竹宮惠子、もとやま礼子、青年劇画の松森正、神江里見(里美)、女性まんがの先駆者・やまだ紫、 伝奇SFの第一人者・諸星大二郎(義影)などがいます。
     また、佳作だった投稿者のなかには、あだち充、大友克洋、能条純一、忠津陽子、山岸凉子、もりたじゅん、 いしいひさいち(石井寿一)など、後にまんが家として活躍している多くの名前が並んでいます。変わったところでは、 フォーク歌手の泉谷しげるの名前が、'69年2月号の佳作第3席に見つかったりします。これも若者の文化全体が刺激しあって新しい波を生みだしていったこの時代を象徴していたように思われます。




    第5部 少女まんがと『COM』

     『COM』が刊行された1960年代後半から70年前後にかけて、少女まんがは静かな変化を見せ始めていた時期でもありました。青年向けまんがが、青春の悩みや社会問題をテーマに扱い始めたのと呼応するように、少女まんがもそれまでの甘い愛や夢の世界から、現実の苦しみや葛藤にも目をむけるようになっていきました。
     『COM』は個性的な輝きを放つ少女まんが作家を積極的に起用しました。 少女の日常と微妙な心の揺れを生活感豊かに描く矢代まさこや樹村みのり、 ミステリーやSFのセンスにあふれた飛鳥幸子など、女性作家の活躍は『COM』を特徴づける要素のひとつでありました。少年誌、少女誌といった枠組みにこだわらないその編集方針は、読者にまんがを幅広く見渡す視点を与えました。
     月例新人賞からも、竹宮惠子、もとやま礼子、やまだ紫など多くの女性作家がデビューしました。のちに「風と木の詩」などで'70年代少女まんがブームの旗手となる竹宮惠子は、入選作「かぎっ子集団」ですでに少年たちを主人公として登場させている。「しつもんがあります」で思春期の少女の女性としての不安と自我の確立をあざやかに描いたやまだ紫は、'80年代には子育てや夫婦、家族の問題を女性の目で描いた「女性まんが」ともいうべき分野を切り開きました。また同じころ少女誌でデビューした萩尾望都も『COM』に「ポーチで少女が小犬と」「10月の少女たち」という、その作風の転回点ともいえる作品を発表しています。
     これら『COM』の女性作家たちは、やがて'69年5月に虫プロ商事より創刊された姉妹誌『ファニー』や、 『りぼんコミック』('69年創刊・集英社)、『別冊少女コミック』('70年創刊、小学館)などを主な活躍の場として、'70年代後半にブームとして花開く少女まんがの新しい流れを形作っていきました。 『COM』は、その導火線の役割を果たしたともいえるでしょう。




    第6部 『COM』とまんが文化

     『COM』はまんが雑誌であると同時に、まんがの批評・研究誌でもあった。草森紳一、佐野美津男、尾崎秀樹、斎藤次郎といったメンバーによる、まんがの文法論や作家論、作品月評などの評論が連載され、さまざまな角度からまんがをとらえる特集や座談会が誌面を飾りました。それは手塚治虫の「創造的なまんが批評を根付かせたい」という思いの表われだったかもしれません。
     藤子不二雄のまんがによるまんが事典「マンガニカ」や、梶原一騎の「わが原作作法」なども『COM』ならではの連載でした。随筆欄「まんがと私」では毎回作家や詩人、映画監督、演劇人や画家、音楽家など多彩な人々が登場し、まんがとの関わりを語りました。ストーリーまんが家だけでなく、一コマまんが家やイラストレーターも、ゲストとして数多く登場しました。まんが界のトピックやイベントのニュース、テレビアニメや海外アニメの紹介なども含め、まんが文化をまるごと網羅した、情報誌だったともいえるでしょう。
     読者のページであった「ぐら・こん」も、新人賞応募者のためのまんが予備校というだけでなく、 同人誌の作り方から、ファン活動のノウハウ、資料収集やまんが研究の方法まで、まんがに関わるためのあらゆる知識を詰め込んだ、 まんがファンのための学校でもありました。読者組織として各地に作られた「ぐら・こん」地方支部は、 全国に散らばっていた同人誌やまんが家志望者、まんかファンたちの交流の場となっていきました。
     一コマまんがから劇画・少女まんが・イラスト・アニメまで、まんがのあらゆるジャンルの情報を集め、その研究や批評の方法を示唆し、多様な文化・芸術の中に位置づけ、そんなまんが文化を担う次代の作家とファンをも育てようとした『COM』は、まさにそのキャッチフレーズがうたう通り「まんがエリートのためのまんが専門誌」だったといえるでしょう。


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