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虫ん坊 2016年4月号 特集1:手塚治虫の伝記漫画がついに英語に翻訳! フレデリック・L・ショットさんインタビュー

虫ん坊 2016年4月号 特集1:手塚治虫の伝記漫画がついに英語に翻訳! フレデリック・L・ショットさんインタビュー

 1992年、朝日新聞出版から出版された『手塚治虫物語』は、手塚プロダクション漫画部の伴俊男が手塚治虫の生涯を描かれたマンガ作品ですが、綿密な関係者インタビューや資料収集により、かなり珍しいエピソードも収録された大著です。ページ数にすると、日本語版で上・下巻、あわせて904ページに及びます。
 多くの手塚作品の英語翻訳を手がけたフレデリック・L・ショットさんが海外の日本漫画や手塚治虫の研究者に役立ててもらいたいと、全編を翻訳、アジア関連の書籍を多く手掛けているストーンブリッジプレスにて、出版することが決定しました。

 フレデリック・L・ショットさんプロフィール

 作家、漫画評論家、翻訳家。
 日本漫画についての造詣が深く、手塚治虫作品では『火の鳥(Phoenix)』、『鉄腕アトム(Astro Boy)』、『罪と罰』などを英語に翻訳するほか、池田理代子『ベルサイユのばら』、士郎正宗『攻殻機動隊』などを翻訳、英語圏の読者に紹介した。
 2000年には、その功績を称えられ、手塚治虫文化賞(朝日新聞社)特別賞を受賞。2009年に旭日小綬章を授賞。
 著作に『ニッポンマンガ論』など。
 WEBサイト: http://www.jai2.com/

   


●特に研究者に求められている

虫ん坊 2016年4月号 特集1:手塚治虫の伝記漫画がついに英語に翻訳! フレデリック・L・ショットさんインタビュー

日本語版手塚治虫物語(上)表紙

――『手塚治虫物語』は手塚ファンでも知る人ぞ知る作品ですが、今、この作品を翻訳出版することになったきっかけを教えてください。

フレデリック・L・ショットさん(以下、ショット): 僕はもともと、手塚さんの本も訳しているし、テーマにした本も書いているし、手塚さんとアトムについての本も書いていますが、最近、アメリカの大学などで、日本の漫画やアニメを学術的に研究している人たちが増えているんです。
 昨今はデジタル化が進んでいて、J-STOREという学術的なデータベースがあって、そこにWEBからアクセスできるようになりました。そこで、アニメやマンガについての論文を見ていると、『手塚治虫物語』を参照している研究者が多いのに気付きました。日本語ができる学者の方も結構いるし、そういう研究者が『手塚治虫物語』を参照しているわけですが、日本語の読めない先生がたや、手塚治虫に興味をもっている高校生や大学生、大学院生たちもまだたくさんいますので、英訳版があったほうがいいだろうな、と思いました。
 もちろん、研究をやっている人は少ないでしょうし、市場としてはすごく小さいだろうけど、一般のファンも着実に増えています。おそらく今、アメリカで一番多くのタイトルが英訳されているのが他ならない、手塚さんじゃないでしょうか。もっとも、日本においても最も多くの作品を描かれたのでしょうけれども。アメリカでも一部のマンガファンには認識されるようになってきているし、20年前に比べてもタイトルもかなり訳されてきています。
 出版社はバークレーのストーンブリッジプレス、というところに決まりました。そこの社長のピーター・グッドマンという人は講談社やタトル・モリでの勤務経験があって、日本関係でずっとやっている人です。手塚先生にも会っていますし、松谷(孝征 手塚プロダクション代表取締役)さんにもあっていますから、その価値を解ってくれたんだと思います。まあ、製作費が賄えるぐらいは、売れてほしいかな…。どんどんPRしてください(笑)!


●アメリカでの評判

――アメリカでは、手塚作品はどのように受け止められていますか?

ショット: 意外と、若い方にも浸透しています。もっとも、マンガファンに限った話で、一般のアメリカ人にはまだまだ名前も知らないという人は沢山いますが。
 マンガ市場そのもののスケールが日本とは違うから、大ベストセラーというわけにはいきませんが…。
 アメリカの読者にとっては、手塚治虫は必ずしも古い作家、伝統的、というわけではありません。

虫ん坊 2016年4月号 特集1:手塚治虫の伝記漫画がついに英語に翻訳! フレデリック・L・ショットさんインタビュー

『手塚治虫物語』の翻訳版の表紙イメージ。英題は“The OSAMU TEZUKA Story”。書評家向けプレビュー版より。


――訳されて初めて触れるからでしょうか。

ショット: そうですね。作品自体は30年、40年経っていても読者にとっては新しいものとして受け入れられるのです。
 学術的には、英語で3冊くらいの研究本が出ています。僕の本 『The Astro Boy Essays: Osamu Tezuka and the Manga/ Anime Revolution』 と、ヘレン・マッカーシーさんの 『手塚治虫の芸術』 という豪華な本と、ナツ・オノダ・パワーさんが立派な本 『God of Comics: Osamu Tezuka and the Creation of Post-World War II Manga (Great Comics Artists)』 を書かれました。ヘレンさんの本はグラフィック的な観点です。オノダさんは演劇学という面白い視点から手塚先生の作品を読み説いています。
 日本のマンガ家一人についての研究本がこれほど出ているのは、手塚さんくらいじゃないでしょうか。アニメだったら、宮崎さんについての本などもありますけれど。この本がきっかけでほかの日本のマンガ家の本も出るようになるといいのですが。


――手塚先生のどんな作品が人気なのでしょうか。

ショット: 僕の感覚では『ブッダ』ではないか、と思いますが、……そのあたりは手塚プロダクションが知っているんじゃないんですか?
 しかし、『ブッダ』を買う人というのは、普通のマンガファンとは少し違っていて、むしろ仏教に興味があって、アジアのエキゾチックさに興味がある人たちが多いのかもしれません。
 日本ではそうではないですよね。いちばん売れているのは『ブラック・ジャック』でしょう?
 

――おっしゃるとおりですね。もちろん、『ブッダ』や『火の鳥』も人気がありますけど、ダントツはやっぱり…。

ショット: 今回の作品は別の方が手塚治虫を描く「伝記」ですので、位置づけもちょっと違うと思いますが、まあ、手塚さんのファンは買うとして、あと研究者と、学生が買ってくれればうれしいです。

――日本のマンガを研究する方は増えているんですね。

ショット: おそらく手塚先生なら「学校では研究しなくてもいいはずだよ」とかおっしゃると思います。学術的なものとポップカルチャーというのは、うまく共存しないところもありますからね。マンガにとっていいことかどうかは、ちょっと分かりません。
 まずはマンガとして読んでほしい、という気持ちはあるんですよね。楽しんでほしい。…そのために描かれているから。研究されるために描かれているわけじゃないですからね。


●翻訳時に苦労した点

――翻訳にあたって、どういう点に苦労しましたか?

ショット: まずは、ナレーションなどのセリフをどのように分かってもらうか、という点ですね。マンガを読みなれていないアメリカ人が読むと、吹き出しにしっぽがついていないセリフは誰が言ったのかが分からなくなってしまうことがあります。アメリカン・コミックの場合は、吹き出しの形を変えたり、色を変えたり、あるいはフォントを変えたりして違いを出すので、そういう工夫は必要になってきますね。
 今回のマンガでは、ナレーターがヒゲおやじの姿を借りた作者、つまり伴さんなのですが、ヒゲおやじの姿がコマの中にないのに、彼のセリフはある、というところがいっぱいあって、ナレーションのフォントを変えたりする必要があります。
 あと、日本語には女言葉や敬語など、話者が誰なのかを推測させるしかけがいろいろありますが、英語の場合は比較的フラットですからね。

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日本のトキワ荘出身マンガ家が勢ぞろいするシーン。日本の読者ならすっとわかるところですが、アメリカの読者にはこの「すごさ」はピンとは来ないかもしれません。
 もう一つ、このシーンの表現方法にもご注目ください。「山手線浜松町の駅で二人の青年が…」というセリフ部分は、ナレーターのヒゲおやじのセリフのはずですが、ヒゲおやじが姿を現さないと、アメリカの読者のなかには混乱するかたもいらっしゃるとか。吹き出しの形を変えたり、フォントに差をつけたりして工夫します。


 もう一つ、日本人ならよく知っている登場人物が分かってもらえないだろう、というところはあります。マンガ家とか、作家とか、アニメーターとか…。
 石ノ森章太郎ですら、アメリカではほぼ無名ですからね。
 そういうところが引っかかって、50ページぐらいで挫折されちゃうとたまらない。圧倒的情報量ですから。そういった意味では、出版は賭けですよね。
 でも、今回は注釈はなるべく入れないようにしようと思っています。どうしても必要なものだけに絞っています。今はネットでなんでも調べられるでしょう? でないと、もうすでに920ページになっているから、出てくるマンガ家について注釈とか解説とかをいっぱい入れると、2000ページぐらいになっちゃう。920ページでも、とてつもなく分厚い本ですよね。人にぶつけたら大変です。入院しちゃう(笑)。

――日本語版では、上・下巻になっていますね。

ショット: そこもアメリカではほとんどない習慣ですね。分冊すると下巻が売れないから。
 ノルウェイの小説家で、6冊くらいのシリーズものを出している人がいますけれども、ひとつひとつは独立した形で読める作品ですから、ちょっと事情が違いますよね。

――どうしても分からない単語などはありましたか?

ショット: 確かに一か所だけどうしても分からないのがあったんですよ。たしか、80年代とか70年代のシーンに出てくるような、スラングみたいなものでした。「がんばりや、カノカッチャン」だったような気がします。まわりにいる日本人友達に聞いてみたりしたのだけれども、最初誰も解らなかったですね。調べようがなくて困っていた。後に京都にいる日本人の翻訳家友達が教えてくれたのですが、どうも1987年ごろに放送された、金鳥の蚊取り線香のテレビCMの流行語だったそうですね。たぶん今の若い日本人にもわかんないんじゃないですか? とはいえ、そこまでのことが分かっていても、英語に直すのはまた別問題ですね。


虫ん坊 2016年4月号 特集1:手塚治虫の伝記漫画がついに英語に翻訳! フレデリック・L・ショットさんインタビュー

虫ん坊 2016年4月号 特集1:手塚治虫の伝記漫画がついに英語に翻訳! フレデリック・L・ショットさんインタビュー

同、プレビュー版より。少年時代のワンシーンを、英語と日本語で見比べてみてください。写真の英語は最終版ではく、下訳段階のもの。


●手塚先生との思い出

――ショットさんご自身のプロフィールについても少し伺いたいのですが、日本にいらっしゃったのはいつ頃でしたか?

ショット: 15の時に来日しました。自分の自由意思で来たのではなくて、引っ張られてきたんですよ、親に(笑)。
 父は外交官で、東京の大使館本館じゃなくて、赤坂見附か虎ノ門近くの米国貿易センターで働いていたんです。その前にはノルウェイに住んだり、オーストラリアに住んだり。オーストラリアから日本に来たんですよね。
 最初は三鷹にあるアメリカンスクールに入れられて、そこではぜんぜん日本語は使わなかった。僕は日本語を勉強したかったんだけど、当時の先生方の考え方が古くて。進路カウンセラーがいるんですが、「今更日本語を勉強してももう遅いよ」と言われたので、オーストラリアでやっていたフランス語を続けました。いまや全然、覚えてないけど。
 あとで国際基督教大学(ICU)に留学生として入ってから、本格的に日本語の勉強をしはじめました。18まではアメリカンスクールにいて、18の時にアメリカの大学に入って、そのあと20歳の時にICUに留学で入って、そのあと、大学を卒業した後もう一度文部省から奨学金をいただいて、翻訳と通訳を研究するためにもう一度ICUに研究生として入り直しました。学位は取りませんでしたが、全部で3年間くらいです。ICUの在席期間が大学の中では一番長かったですね。
 仕事ではサイマルという通訳斡旋会社があって、そこの翻訳部にしばらく入っていました。そのあと、78年からずっとフリーで、サンフランシスコにいます。

――お仕事は翻訳が多いのでしょうか。

ショット: 通訳、翻訳…、あと、本の執筆も。僕は売れない本を書くのが専門で(笑)。

――手塚治虫に会われたのは77年ごろだと聞いているのですが。

ショット: そう、そう。大昔。

――初対面の時には、どんなきっかけで会うことになったんですか。

ショット: 先生の作品を読み始めたのが70年ごろからだったのだけれども、77年に、僕ともう一人のアメリカ人――Jared Cook――と、日本人二人、――坂本伸治さんと、ウエダ・ミドリさん――で「駄々会」、っていうグループを作ったんですよ。
 日本のマンガを英訳して、西洋の人たちに紹介しようという夢を持ってやっていたわけです。
 誰の作品から始めようか、という話になって、ぼくたちは手塚さんの『火の鳥』とかが大好きだったので、手塚プロダクションに話を持って行ったわけですよ。
 セブンビルにオフィスがあった頃です。先生に会えるとは思っていなかったんですけど、一応伺いにいったわけです。松谷さんも当時は、…ご本人には申し訳ないけど、若くてさ(笑)。スリッパをはいていて、シュッシュッシュッって音させながら、眠そうな目で出ていらっしゃって、――たぶんその時、彼はソファで仮眠でも取っていたんだと思うんだけど、僕らと会ってくれて、それで詳しい話をしていたら、――そこに先生が現れて。

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ショットさんが描かれているシーンがありましたのでご紹介しましょう。3コマ目、ウォード・キムボール氏と鉄道模型を見ているコマは写真がもとになっていますが、奥の男性が同行していたショットさんです。

 手塚先生の好奇心旺盛はよく知られるところだと思いますけれども、「あなたたちは何をしようとしているのか」とか、「何をのぞんでいるのか」というようなことをたくさん、聞かれました。それが初対面です。
 駄々会というのは長くは続かなかったのですが、松本零士さんにもアプローチしたり、いろいろ夢はあったんですよ。ぜんぜん実現しないままでしたが。
 駄々会として、『火の鳥』を5巻まで英訳して、そのコピーを作って手塚プロダクションに渡しておいたんです。その後25年ほど、手塚プロダクションの金庫の中で眠りにつくわけですが…。
 そのあと、手塚先生が海外に行かれるようになって、自分かJared Cookのどちらかが大体先生のために通訳をするようになりました。
 いろいろなところに同行しました。アメリカの中もいろいろ旅したり、カナダまで一緒に行ったり、僕にとってはとても貴重な時間でした。長旅なのでかなり長いこと話もできるんです。通訳の仕事をしていると、著名人や天才と言われるような人にも会うことはありますが、多分自分がいちばん直接影響を受けているのが、ほかでもない手塚先生です。


――番心に残っているエピソードというか、思い出のようなものはありますか? 驚いたこととか…。

ショット: 先生も僕も、話に夢中になるところがあるんですよね。先生のほうもものすごい好奇心があって、僕にいろいろ聞いてくるから、…アメリカではこれについてはどういう風に考えられているのか、とか、これはどう思うか、とか…。それが僕も興味を持っていたことだったりして、僕も話に夢中になってしまう。話がすごく弾むわけですよね。
 一度、手塚先生が確かサンフランシスコ経由でカナダ行きの便に乗り換える予定だったとき、搭乗口の真ん前で、手塚さんとの話に夢中になりすぎて、手塚さんと僕が乗るはずだった飛行機に乗り損なったことがありました!
 全く気が付かなかったわけですよ。ちゃんとアナウンスしてるし、ほかの乗客は全員並んでいて、ナンバーも何度も読み上げられているのに、搭乗口の真ん前にいた僕も手塚先生もぜんぜん気づかなかったという…。そのあと、よくまあ怒られなかったな、と思ったものです。

――先生は怒らなかったんですか。

ショット: ええ。僕のことは怒らなかったですね。先生が部下に対して怒るのも見たことがあるし、ヒステリーを起こすところも、松谷さんに対して怒ったところも見たことあるけど、僕に対してはすごく親切だったんです。あの時は怒ってもよかったんですよ。スケジュールに対しては僕が責任を持っていたわけですから。だからそれはすごくよく覚えているかな。

 それから、これは『ブラック・ジャック創作秘話』にも出てくるエピソードだと思うんだけど、たしか先生が東海岸から戻ってくるときにサンフランシスコに立ち寄って、原稿を描かなきゃなきゃならないんだけれども、まあ、描きたくない。『火の鳥』の原稿を描くはずが、それが遅れに遅れて。日本の出版社から編集者が送り込まれてきて、先生がサンフランシスコでカンヅメにされていたのを覚えているけど、それは凄いなと思った。…編集者をわざわざ日本から送るということが、アメリカでは考えられないことです。

 あとは、フロリダでドキュメンタリーを創るためにディズニー・ワールドを訪れた時のことです。通訳として同行したんだけど、日本から来た撮影隊もいてね。その中の照明係が、長旅の疲れか、立ったまま居眠りしているんですね。時折膝がかくん、となっちゃうんです。立ったまま居眠りする人なんて初めてみましたよ。その仕事の後、先生はホテルの部屋に戻って「Good night」とか言って自室に引き取ったんですが、朝また会ってみると、先生は寝てないわけです。ずっと原稿を描いていたんでしょうね。『火の鳥』か何かだったと思いますが、ちゃんと下書きだけじゃなくて、人物とかキャラクターのペン入れまでやってあるわけですよ。僕は徹夜なんかできない人間ですから。
 撮影隊の若い人たちがへとへとなのに、びっくりしましたね。

 先生とはいろんな話をしました。アメリカ大陸を横断すると、けっこうな時間になるじゃないですか。5,6時間とか。いろんな話をしましたよね。
 哲学の話とか、科学の話とか、宗教の話とか。あの人はすごく好奇心旺盛ですよ。多分、僕が日本語ができるということで、ぼくから先生に提供できることって少なかったと思うのですが、先生にしてみれば、外国の人たちが何を考えているのか、ということを探る一つの手段だったのかも知れない。


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●今後翻訳するなら

――まだ未訳の作品で、訳してみたいものはありますか?

ショット: 未訳作品はいっぱいあります。僕は『鉄腕アトム』とか『罪と罰』とか『ブッダ』とか『火の鳥』とかやっていますが、ほかの人が翻訳しているものも多いですし、まだ訳されていないものは山ほどあります。これから、僕よりもっと若い人が訳していくことになるんじゃないでしょうか。
 まだ訳されていないものとしては、『シュマリ』とかは面白いと思いますね。僕自身、歴史が好きで、北海道の歴史とか、維新の話とか、おもしろいかなあ、と思います。あとは、『陽だまりの樹』とかも出ていないですね。
 そういうのももしかしたらどこかのWEBに海賊版が載っているかもしれませんけれども。そういう時代ですよ。日本のマンガはずいぶん、海外のファンたちに無断で訳されています。スキャンレーションで。みんな自炊して、フォトショップで吹き出しの所を消して、自分の翻訳を入れるんですね。スキャニングとトランスレーションでスキャンレーション、です。スキャンレーションで日本のマンガを読んでいる人が、アメリカでは結構多いですね。それだけで漫画を読んでいる子が多いです。
 この間、ワイオミング州のアイオワのララミーという首都にある大学で、一年くらいまえに講演しているときに、大学生たちに話をしていたわけですよ。みんな漫画のファンで、どうやって漫画を手に入れて、どうやって読んでいるのか、と訊いてみたら、驚くことに、みんな漫画を買ったことがなかったんです。マンガオタクで、いっぱい読んでいるけど、全部スキャンレーションで読んでる。で、彼等いわく、学生だからお金もない、地方だから本屋もないし、手に入れる方法がないから、WEBでスキャンレーションで読むしかない、って言うんですよね。
 正規のものが出るまでにもう何年もかかるし、待てないわけですよね。そういう人ばかりですよ、いまのアメリカは。下手な訳でもいい。「Good Enough」の時代ですからね。

――そういう状況に口惜しさみたいなのも感じますか。

ショット: それはそうですね。僕のような人にとってはちょっとね。プロの翻訳家の時代はほとんど終わっている。大学生とか、大学を出たばかりの人たちが、いろいろな翻訳を手掛けたり、半分ボランティアのようにしてやっている人もいるし。そのうち、Googleのトランスレーションになっちゃうんですよ。近いうちに。
 作品にとってはより多くの人に読まれるようになるのはいいことですよ。描き手にとっては収入をどこから得るのか、というのは大きな問題はありますが。音楽にしても、映画にしても、小説にしてもみんな同じですよ。
 最近のアメリカでは、ミュージシャンもライブをやってTシャツを売ったりして収入を得ることをしなくてはいけない。CDは最近あまり買われないでしょ? スポティファイとか、アップルミュージックなんかで、無料でガンガンかかっているから。もうあとは、Tシャツを売っていくしか……。

――研究など、長年の経験や知識がないとできない仕事は、ショットさんのような方にしかできないことではないかと思います。

ショット: 夢の印税生活にあこがれたこともありますけど……。まあ、なかなかそうはいかないですね(笑)。

――少しずつでも手塚治虫のファンが増えているのは、ショットさんの翻訳あってのことです。よりたくさんの人に読んでいただけると私たちもうれしいです。
 今日はお話を聴かせていただきありがとうございました。



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