手塚治虫記念館手塚治虫記念館

常設展2 「作家、手塚治虫」 2

虫プロダクション


虫プロダクションスタッフと虫プロ第一スタジオの前で

1958年、手塚は東映動画の嘱託として長編アニメ「西遊記」の原案構成・演出を担当。
61年6月には練馬区富士見台に完成したばかりの自宅のガレージ2階に、坂本雄作、山本暎一、広川和行、渡辺千賀子に手塚を加えた5人が集まり、手塚プロダクション動画部を設立。
その後、紺野修司、杉井儀三郎、石井元明、中村和子らベテラン・アニメーターが加わり、同年12月、株式会社虫プロダクションとして正式発足した。
「虫」という名前には、治虫の「虫」と同時に「マンガの虫」「アニメの虫」という意味も込められていた。

ある街角の物語


キャラ設定 少女


キャラ設定 酒場の女

誕生したばかりの手塚プロダクション動画部は、第一作として中編の「ある街角の物語」の制作を決め、62年9月に完成させた。
坂本と山本の共同演出によるシネスコ39分の叙情的な作品で、予算の都合で動く絵を少なくするために、ポスターなど動かないものをキャラクター化したが、かえってそれが斬新な印象を与えた。
作品としての評価も高く、62年度毎日映画コンクールで第1回大藤賞を受賞したほか、第17回芸術祭奨励賞、第13回ブルーリボン教育文化映画賞を受賞した。また、62年8月、虫プロは日本最初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の制作を決定。
11月に、銀座、ヤマハホールで「ある街角の物語」、「鉄腕アトム」第1話、短編「おす」を「第1回作品発表会」として上映した。

日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」


アトムのおもちゃや本、レコード


「テレビジョンエイジ」

1963年1月1日から全国のフジテレビ系で国産最初の長編連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の放映が始まる。
国産テレビアニメの第一号は前年9月にスタートしたおとぎプロ制作の「ヒストリーカレンダー」だが、こちらは5分の帯番組で、30分の長編連続ものとしてはアトムが初の試みだった。
週1本のノルマをこなすために、アメリカのハンナ・バーベラがテレビ用に開発したリミテッド・アニメを導入。
ストップモーションやセルを保管して繰り返し使うバンクシステムなどの省力化策も考え出された。
「鉄腕アトム」は66年12月までに193本が制作され、最高40.3%、平均25%の高視聴率で人気番組になった。
また、63年9月からはアメリカのNBCテレビでも「アストロボーイ」の題名で放映された。
版権をきちんと管理してキャラクタービジネスを確立したのも「鉄腕アトム」が最初だった。

日本初のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」


絵コンテ 第一話「行けパンジャの子」


キャラ設定原画 パンジャ

1965年10月から、虫プロダクションは「鉄腕アトム」続くテレビアニメとして「ジャングル大帝」の放映をフジテレビ系で開始した。
この作品は国産初のカラーテレビアニメ。当時のカラーテレビはまだ一般に普及しておらず、また、赤の発色が悪い事から、赤を強めに使うなどの工夫があったという。
コストはモノクロの3倍で、これをまかなうために商品化や海外輸出が前提となった。
監督は山本暎一、音楽を冨田勲が担当した。
山本が制作予算の大半をつぎこんで作り、冨田が曲をつけたオープニングの映像は現在でも作るのは難しいとされるほどのできばえ。
特にフラミンゴの群れが一斉に飛び立つシーンは圧巻だった。
テレビ記者会賞特別賞受賞。
劇場版でベネチア国際映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞。
なお、制作スタッフには永島慎二、北村英明、村野守美らも名を連ねている。

テレビアニメブーム


「リボンの騎士」セル画(1967)


「バンパイヤ」スチール(1967)

「鉄腕アトム」の成功に刺激されて、それまでテレビアニメの制作に二の足を踏んでいたテレビ局や動画プロダクションは、続々と制作の名乗りを上げた。
63年秋には「鉄人28号」(TCJ=現在のエイケン)やエイトマン(同)、「狼少年ケン」(東映動画)などが登場。
65年の「オバケのQ太郎」(東京ムービー)によってアニメブームは頂点に達する。
虫プロも65年に「ジャングル大帝」「W3」、66年には「新ジャングル大帝進めレオ!」、67年には「悟空の大冒険」「リボンの騎士」をそれぞれ制作して放映。
さらに、虫プロの版権を管理していた虫プロ商事も日本初のアニメと実写が一体となったエリアル合成のテレビ映画「バンパイヤ」をつくった。