手塚治虫記念館手塚治虫記念館

常設展1 「宝塚と手塚治虫」 3

手塚治虫と医学


医学生時代のノート


学位賞状

手塚が入学した医学専門部は軍医や占領地の医師不足を解消するために戦時の臨時の医師養成機関として設置されたものだった。
手塚が医者への道を選ぶきっかけとなったのは、中学生時代に体の弱い子どもの錬成道場に入ったときに腕に入ったばい菌から両腕切断寸前までいったことがあげられる。
優秀な医者のおかげで助かった彼は、こんどは自分が医者になって人々を助けたいと考えたのだ。
医学生時代の手塚には教室の後ろで内緒でマンガを描いていたとか、大学病院の看護婦さんをアシスタントがわりにしたというエピソードも残っているが、52年には医師の資格を、61年には「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」で医学博士の学位を取得しているのである。

手塚治虫と宝塚歌劇


色紙「春日野八千代」


「寶塚グラフ」(1947.11)

宝塚歌劇のファンだった母・文子の影響で手塚は物心ついた時分から宝塚歌劇を見て育った。
宝塚に移り住んでからは、お隣りに宝塚の大スターだった天津乙女と雲野かよ子の姉妹が住んでいたこともあって、歌劇はより身近な存在となる。
ミュージカルやレビューだけでなく能や歌舞伎に題材をとった作品まで、オーケストラの伴奏で演じる宝塚歌劇の無国籍性はマンガ家になってからの作品にもさまざまな形で影響を及ぼしている。
戦争中には宝塚大劇場が閉鎖されたため歌劇から一時離れるが、戦後宝塚大劇場での公演が復活すると、手塚は大学の友人やマンガ家仲間まで誘いこむほどの熱心なファンになり、さらにマンガ家デビュー後は、歌劇団が発行する雑誌「歌劇」や「寶塚グラフ」にマンガを描いた。
「リボンの騎士」は、彼の宝塚趣味が横溢する作品で、女性が男性を演じる男役のイメージはその後の少女マンガのヒーローにまで受け継がれた。

はじめての仕事


マァチャン人形と「マァチャンの日記帳」スクラップ

医学生時代の手塚は、将来医者になるのか、マンガ家になるのかを迷いながらも、新聞社などにマンガを積極的に売り込んでいた。
それが実を結んだのが1946年(昭和21年)1月4日から「少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)関西版」に連載された四コママンガ「マァチャンの日記帳」である。
元旦には連載開始の社告が掲載され、手塚は掲載紙を手に入れるために早朝から大阪・堂島の大阪毎日新聞本社まで足を運んだという。
連載は好評で、当初1ヶ月連載の予定が3ヶ月に延長され、木製のマァチャン人形まで登場した。
こののち手塚は「京都日日新聞」などに連載マンガを発表。
また、関西マンガ界のベテラン・酒井七馬が主宰する雑誌「ハロー・マンガ」(育英出版)にも四コマや短編を描くようになった。
マンガ家・手塚治虫のデビューである。

未使用原稿


「新寳島」原稿


「漫画大學」原稿

酒井七馬との出会いによって、手塚は酒井との合作単行本「新寳島」の執筆にとりかかった。
酒井の原作・手塚の作画だったが、手塚が自分流の解釈で描いた原稿を、子ども向きでないと考えた酒井は60ページ近くカットして、登場人物の一部も描き直して出版した。
このため、当時40万部を超えるベストセラーとなった手塚の出世作であるにもかかわらず、手塚自身がこの本の復刻を否定し、晩年自らリライトする形でようやく日の目を見たといういきさつもある。
この後、手塚は大阪の通称・赤本出版社と呼ばれる版元から単行本を出すようになるが、ここでもページの制約などから多くの未使用原稿が出た。
51年の「来るべき世界」では、1000枚の原稿を400ページにするという作業さえ行っている。

赤本(描きおろし単行本)


「新寳島」(1947)


「地底国の怪人」

「新寳島」のヒットがきっかけになり、大阪では赤本マンガのブームがおこる。
これらのマンガは粗悪な紙に、描き版という、職人が原稿を印刷用の金属板に直接描き写す手法で印刷されたものが大半だった。
手塚の初期作品も描き版印刷で出版されたために、本の絵はまちまちで「手塚治虫はふたりいる」と勘違いする読者もいた。
それでも、手塚は精力的に作品を発表して、1947年の「地底国の怪人」では、従来のマンガの枠を超えたストーリー・マンガの形式をほぼ確立。
全国の子どもたちの人気を集めた。

海賊本


手塚マンガの海賊版

赤本出版社の多くは著作権に関する認識が全く欠けていて、無断で複製をつくったり、著社に断りなく版権を売ったり、中には描き版をそのまま売ってしまうところまであった。
人気作家だった手塚の海賊版は特に多かった 。

構想ノート


「来るべき世界」らくがき予告


「来るべき世界」あらすじ

手塚は10代のころから、ふと思いついたマンガのアイデアなどをノートにメモしておく習慣があった。
メモはそのままマンガに活かされることもあれば、のちに新しいアイデアのヒントになることもあった。
また、演劇や映画の影響からマンガを描きだす前には台本をつくった。
1977年に手塚が書いた「マンガの描き方」(光文社)によれば、手塚の台本づくりは次のプロセスに分かれる。
テーマを考える→構想をつくる(ジャンル分けしておおまかなスジをつくる)→あらすじ(何がどうしてどうなったという簡単なもの)→箱書き(小説の状態)→シナリオ→キャラクター設定→考証。
手塚にとって、これはなかなか楽しい時間だった。
ときには誰に見せるでもない予告広告のらくがきまでつくっている。