愛知万博にちなんで、今月の虫ん坊では、手塚治虫と万国博覧会、と題しまして、過去に開催された万国博覧会から、手塚治虫とかかわりの深かったニューヨーク博、モントリオール博、大阪博の3つを、先生の文章やイラストを交えて、ご紹介いたします。

 

 

←1970年「週刊少年マガジン」の表紙を飾った、「万博怪獣エキスポラ」


◆1964年 ニューヨーク

↑フォード館の様子。「パリパリの千万円台の新車」に乗せられ、「地球の古代の大パノラマ」に連れて行かれる
 

このころの手塚先生:
 36歳。『鉄腕アトム』、雑誌「少年」にて連載。
 産経新聞の特派員として取材。
 このときウォルト・ディズニーと出会う。

●手塚先生のエッセイより:

 「4月22日にフタをあけたニューヨーク世界博に、週刊サンケイの特派員としてとびこんだぼくは、足に五つも豆ができるほど歩いた。
 (中略)
 「見てきたようなウソを見せる」ところがニューヨーク世界博。実際、未来都市や宇宙旅行の夢物語に、ズイキの涙を流す連中はおろか、田舎のオッサンからよちよち坊やまで、文句なく娯しませるしかけがゴマンとある。…」
 (週刊サンケイ 1964年5月18日号 「ニューヨーク博見てある記」より)


 「ぼくはニューヨークでウォルト・ディズニーに遇った。というより、すれちがったという形容のほうがあっている。
 ニューヨーク世界博の開場の日、偶然、かれと話を交わすチャンスを得たのである。それも、かれは四つのパビリオンのアイディア・マンの総帥として開場式にのぞみ、ぼくは一介の新聞特派画家兼野次馬としてもぐりこんだだけで、まともなら、顔をあわせる可能性などない筈のものだった。」
 (文芸春秋 1967年5月号 「ニューヨークのディズニー」より)


◆1967年 モントリオール
このころの手塚先生:
 39歳。テレビアニメ「リボンの騎士」放送開始。
 マンガ集団の世界一週旅行の一環として見学。

 アメリカ館・ソ連館が人気を博したようです。日本館の印象は、「見本市みたいに、商品をずらっと並べただけのところが、オーソドックスすぎて、あっけない」感じだったようです。


↑上から、アメリカ館、ソ連館、日本館の図。


↑ラテルナ・マジカ

●手塚先生のエッセイより:

 「会場では毎日、世界一流のアトラクションをたえず公開しています。その中で、これは珍しい! と思ったのは、チェコスロバキアからやってきた、このショー(ラテルナ・マジカ)。ひとことにしていえば、映画とマジックと実演の混合ショーなのです。

 実在の人物が、ステージで芝居をしているかと思うと、もうスクリーンの中へ入ってしまい、ときにはスクリーンの人物と実物とがやりとりをし、スクリーンの自動車のヘッドライトがほんもののライトを客席へ照らす…といったぐあい。」
(サンケイ新聞 1967年6月5日付 「鉄腕アトムのカナダ万国博見物」より)


◆1970年 大阪
このころの手塚先生:
 42歳。「やさしいライオン」で毎日映画コンクール第8回大藤信郎賞受賞。
 政府出展委員・「万国博への提案」審査委員その他、さまざまな仕事を引き受ける。

 日本で始めて開催された万博としても有名です。当時の著名な芸術家や企業なども、多数、協力しています。今も大阪のエキスポランドにそびえる、芸術家・岡本太郎の「太陽の塔」と言えば、皆さんもよくご存知のはず。手塚治虫もまた、この万博には深くかかわり、セイコー館で上映されたアニメ「おかしな一日」や、フジパンロボット館のプロデュースなどを手掛けています。


↑おしゃべりロボット


↑カメラマンロボット


↑じゃんけんロボット

 「子供の夢」をテーマにいろんなロボットを登場させ、「人間と機械とのふれ合い 」を見せたい、という趣旨の元、製作されたフジパンロボット館が、中でも目玉。
  館内は「ロボットの森」「ロボットの町」「ロボットの未来」の三つに分けられ、ロボットオーケストラやロボット飛行船など、全部で40体のロボットが展示されていました。このロボット達、最先端の技術を使ったロボットというより、子供たちが思い描く、人間の友達としてのロボット、という路線を目指して作られ、万博後、ロボット館は愛知県の愛知青少年公園に移設されました。

 写真は、ロボット館に展示されていたロボットの一部。名まえのとおり、写真を撮影したり、じゃんけんをしたりと、展示されているロボット達と実際に触れ合って楽しむ工夫が見られます。


 万国博といえば、あなたにはどんな思い出がありますか? 今年の愛知万博では、手塚治虫のメッセージをプラネタリウムに絡めてご紹介する「手塚治虫のCOSMO ZONE THEATER」他、さまざまな催しを予定しています。お近くにお立ち寄りの際には、ぜひ覗いてみてください。